菊花夜話

兄を探しています。

八夜目 おかえる様

ヘテロラブ描写、未成年を対象とした軽度な性描写があります。
 
 こんにちわ 僕はF市に住むものです。4月に中学1年生になります。本当はこの話はしちゃダメって言われたんだけど、だれかに言っとかないとおじいちゃんのことを忘れてしまいそうな気がするので投稿します。
 2か月ぐらい前におじいちゃんが首を吊って死んでしまいました。でも僕のおじいちゃんではありません。町はずれの古い屋敷に1人で暮らしてたおじいちゃんです。僕は学区から少しはずれたところに住んでいるので遊ぶ友達がいなかったから、かわりにおじいちゃんに遊んでもらっていました。おじいちゃんは足が動きにくいらしくて、あまり運動はできなかったけどおじいちゃんから色んな話を聞いたりおじいちゃんちの庭で遊んだりするのは楽しかったです。おじいちゃんも「自分にはこどもがいなかったから自分の孫のように思えてかわいい」と僕のことをかわいがってくれていました。
 だからこそ、なぜ死んでしまったのかわからなかったし、とても悲しかったです。お葬式ではたくさん泣きました。僕が1番泣いていたと思います。でもおじいちゃんの親せきと言っていた人たちは全然泣いてなかったです。そもそも、おじいちゃんは生きていたころ親せきを家に呼んだり、おじいちゃんが出かけたりすることがなかったので、本当に親せきなのか僕は不安になりました。僕が1番おじいちゃんと仲よしでいたと思っているからです。
 僕はゆうきを出して親せきの人に話しかけました。眼鏡をかけた男の人で、お父さんと同じぐらいの年れいの人でした。その男の人は僕がおじいちゃんと仲よしでいたことを知ったとき、すごくこわい顔になり「何かわたされなかったか」と聞いてきました。僕はこわかったし、本当に何もわたされていなかったので「もらってません。」と言いました。それから男の人はどこかに行ってしまいました。あの人はもしかしたらむりやりおじいちゃんの家に入りこみ何かを探しに来るかもしれないと思いました。僕にはあの男の人が本当の親せきなのか不安なのもあったし、僕とおじいちゃんが大好きだった家を荒らされてしまうのは嫌だったのでそれはやめてほしいなと思いました。
 でも、わたされてはいなかったですが、ぼくがおじいちゃんの死んでいるところを初めて見つけた時、1個の手紙を持ち帰っていました。はじめはこわくてにげだそうとしてたのですが、こわくて足が動かなくて、そうしているうちに死んでいるおじいちゃんの足元に手紙があるのを見つけ、「きっと、僕に書いてくれたんだ。」と思いました。でも、僕あてではありませんでした。だれあてでもありませんでした。全部は難しかったのでどういうことかわからなかったのだけど、親や学校に見せるべきじゃないとも思ったのでここでだれかが見て、おじいちゃんがこの手紙を出したかった人に届けばいいなと思います。
 
 今から手紙の内容になります。地名とかだけかくしてますが、それ以外はそのまま写してるので難しいかもしれないですが、おねがいします。

 
 「
 
     お許しください
                  どうか、お許しください。
    
 今生において、決してこのことを口にすることはなく、躯と共に墓に埋めようと思っていました。しかしどうか、 どうかこの紙面にて、私の愚かな告白をさせてください。
 このような真似を快く思ってくださる人はきっといないでしょう。九十幾年の人生において二番目の愚陋をどうか、許してください。
 
        ごめんなさい
   
    私は七十三年前、家族を殺しました。
   
 
 
 九十年前■■の■■村で私は次男として産まれました。兄がいました。双子の兄でした。兄は幸男、私は和男なので「ユキチャン」「カズチャン」と当時は呼ばれ可愛がられておりました。戦争前なのもあり子供が産まれることは村にとって大層喜ばれたそうで、村の人々も家族のようにいつも温かく接してくださっていたのを覚えております。兄と私は双子の言う通り顔も体も瓜二つで、当に同じ人間が二人在るようでありました。同じものを好き、同じ衣類を纏い、同じ時を過ごしておりました。私は兄のことが家族で一番好きでした。兄もまた同様に私のことを好いてくれていました。私たちを産んだ母親や父親よりも、という自負が互いにありました。無論家族を愛しておりましたが、世界で私と兄の二人しかいないというだけで兄は私にとって特別な存在でした。どちらが秀で、どちらが劣るということもなく、ただ同じものが二人在ると言うことが私にとって心地よかったのです。
 高等小学に入れてもらった頃から私と兄は度々人には言えない、まるで男女の恋人同士がするようなことをしておりました。元々二人きりでいることが多かったのですが、成長につれ好奇心のまま、互いに唇をあわせてみたり、抱き合ったりして恋人の真似事をするようになりました。大人になったようなからかいが私たちの日常の一部となっておりました。
 その頃から戦争が日本でも激化し出しておりました。空襲は夜毎に増しその度サイレンがけたたましく鳴る夜を家族と過ごしました。同じ頃私と兄の違いが1つだけ生まれておりました。私の足は年をとるにつれて動きにくくなってきており、昼間は農作業も周りから助けてもらいながらやる始末でした。ですがそのお陰で私は「きっと兵隊さんはのろまな私を戦地には連れて行かれないだろう」と思っておりました。高をくくっていたのです。それは兄と離れたくない願いからでもありました。兄が戦いに出てしまったらどうしようと思いもしましたが、その度に兄は「その時は僕も足が悪いふりをしてやろう。きっと兵隊さんたちはどちらがどちらかわかりやしないからね。」と言って私を励ましてくれておりました。私はその言葉に大層喜びましたが、兄に気をつかわせてしまう私の両足が憎くも愛しくもありました。何より、兄と私が別のものになってしまうということが恐ろしく、このまま大人になってしまうならこの戦争で兄と死んでしまった方がいいと思っておりました。
 戦争はある日終わってしまいました。十六の時でした。村も人も小さくなってしまっておりましたが、幸い家族は皆生き残っておりました。私も兄も、生き残っておりました。陛下の玉音放送から数週間ほど経ってから父は箱になって帰ってきました。父は私と兄をいつも心配してくださっていた優しい人でした。当時そんな父を周りは女々しいいくじなしと言っておりましたが母はそこに惹かれていたようで、その日を境に母は気を病んでしまいました。戦時中は足、戦後は母を言い訳に私たちはいよいよ村から出ない生活を選びました。
 しかし十六ともなりますと、もう私たちはもう嫁を貰わなければならない年となっておりました。私と兄しかおりませんので少なくともどちらかが好い人を見つけ、家族を作らなければなりませんでした。母のこともありますし私たちもそういった心配も多分にありましたが、二人でいた時間があまりにも長く閉鎖的であったからそのようなことに気を配るのはどうにも苦手でした。村の人たちも見合いの話を持ちかけてくださっておりましたがあまり気が乗らないのは兄も一緒でした。ですが二人ともこのままではならないと自覚もしておりました。何か現状を好転できるようなきっかけを模索しておりました。
 次の年の秋でした。村は戦後初めての秋祭りを行えるまでには復興しておりました。そして祭りに併せ、私と見合い相手の祝儀も行われました。見合い相手はサチと申しました。年は私より二つ上で東京から疎開したまま村に定住していた娘でした。結婚を決めたのは私自身でした。足が善くなることはなく、村から出れないだろうと察していたのです。皆が祝いの言葉を送ってくださる中、兄だけは最後まで私の結婚を快くは思ってくださいませんでした。「こうしたら仮に兄が村を出たくなったとしても兄を縛るものはないだろう。兄とずっと一緒にいたいが、負担になってしまうのは私にとって快いことではない。」と思っておりましたので、兄もまた私と同じように私のことを思ってくださっていたことを嬉しく思いました。兄は祝儀には顔を出さず、その夜泥酔した状態で帰ってこられました。兄はどうやら、村から出る気はなかったようでした。
 サチが兄のことを気にかけだしたのはそれから間もない頃でした。ある日「幸男さんの様子がおかしくないかしら。」と私に言ってきたのです。兄におかしいところなんてあるはずないと思っておりましたのでそんなことはないだろうと思いつつも、兄を私のいる寝室に呼ぶと、兄はいつものように私に笑いかけながら「なんともないよ」と言ってくださいました。そう仰る兄の姿は決して何か隠しているためのものではありませんでした。兄と同じ私がそう思うのですからきっと違いないと思いきっておりました。母は肺と腸を悪くし、常に床で一日を過ごすまでとなっておりました。
 私とサチには子どもができませんでした。私が子どもをつくりたがっていなかったのもありますが、まるで神様がそうしているように感じられました。サチは村の「おかえる様」のところに数度お参りにも行きました。おかえる様とは村で祀られた蛙の見目をされた神様で、豊作や子孫繁栄の象徴とされておりました。村の祭りも豊作祈願を込めたもので多くの農作物をおかえる様に備えておりました。兄はそのことにも不満を持たれているようでした。サチがお参りの際にうちで出来た米を持っていこうとすると「おかえる様に備えるより自分たちで食べた方がいいに決まっている。ただでさえ決して裕福というわけでもないのに、お前がちゃんと食べなければ元気な子も産まれないし、乳だって出やしないんだぞ。」と仰っておりました。サチには耳が痛かったようですが今思ってみると彼女は外から来た身でもあり、おかえる様の信仰をないがしろにして他の村人からよく思われなくなるのも彼女自身や家族によくないと思ってくれていたのだと思います。そのようにサチが気を配ってはいたものの兄とサチはあまり仲がよくありませんでした。私は口を出そうにも足の動かない出来損ないでしたし、兄もサチも家族として愛しておりましたのでどちらかの味方をしたりはしませんでした。しかしそれでも兄はやはり私にとって特別でした。兄と私は年のわりに若く見られておりましたが兄は特に少年のままかと思うような美しい顔をされておりました。私と兄に違いが生じてくるのは実際恐怖でもありました。どちらでいるのか、わかりはしませんでした。しかし私も足を悪くし結婚まで身勝手にしたものですので、ただ兄が村に居続けてくださることだけでも私にとっては幸せなことでした。
 初冬のある日、兄は私に言ってきました。「子どもがほしくないか」と。その言葉の意味がその時はわかりませんでした。どこかに貰い子のつてがあるとも思えませんでしたし、兄に外からの人間とそのような関わりがある可能性も低いと思っておりました。どういうことか訊いてみると「おかえる様がくださるよ。やっぱりあんなソトモノにはこたえてくださらないんだ。」と答えられるだけでした。私はその時初めて兄に違和感を覚えました。兄は常に現実的な考え方をされ、しきたりに背くことはなくても異常な執着心や没頭があるような人ではないことを私が一番知っておりましたから。それ以上に直感的に、兄の異変を感じました。何かよくないのではないかと思いはじめは断ろうとしていたのですが兄は既に手筈が整っていると言い、聞く耳を持ってはくださいませんでした。これは何かおかしいという疑心が確信に変わり、私はサチに相談しました。すると同じような話を私の母からされたと言いました。元凶は母だったのです。毎朝顔を見に行く程度しか同じ家でも会わないようになっておりましたので母に問い詰めようとしました。改めて会う母はかつての若さどころか、快活な性格さえも失ってしまっておりました。年以上に老け髪は白く、まるで童話に出る山姥そのものと思わせるほど変わり果てていました。話しかけてもか細い声で支離滅裂なことを言うだけで、このような状況の母をサチは嫌味も言わずに世話していたのを私は初めて知りました。母は気が違っていたのです。結局母から兄や、兄の仰られていたことについて聞き出すことはできませんでした。当時兄は稼ぎに行くと言い朝早く家を出、夜遅くに帰るという生活をされており一日中家にいる私は夜まで兄と会えませんでした。食事にも顔を出さなくなっておりましたので、兄が倒れてしまうんじゃないかと心配していた時の唐突な誘いでしたので、より兄のことを考えてしまうようになりました。その日の夜、帰ってきた兄を見て私は驚きました。兄の腹が朝とは比べ物にならないほどに膨れ上がっておられたのです。ぞっとしました。子どもの意味をその時やっと察しました。「おかえる様はやはりすごいんだ。普通男は子どもができないが、おかえる様にお力を借りればこれぐらいどうってことないんだ。」と兄は幸せそうに笑っておりました。私は兄が喜んでいる姿に嬉しくなっていいのか、わかりませんでした。ただ止めることもできませんでした。
 その日のうちにサチは気を失いそのまま寝込んでしまいました。兄は私の寝室で椅子に座り私と兄が好きだった宮沢賢治を読んでおりました。
「この腹の中にはね、おかえる様の子どもがいるんだよ。おかえる様は子どもを授けてくれる神様というのは和男も知っていたね。あれは本当のことだったんだ。でもおかえる様は外から来たものには子どもは与えてくださらない。村で生まれたものじゃないとおかえる様の輪から外れてしまうんだね。僕らは産まれた時からおかえる様の子どもとして産まれ、死ねばおかえる様に帰るんだよ。どうしてそんなふうになるのかは母さんは教えてくれなかったけどね。でもそうして僕はおかえる様の恩恵を賜ることでこうしておかえる様の子どもを授かることができたのさ。僕と和男は今でも同じ、そう和男も思っているだろう?」
何も答えられない。私は口を開けることができませんでした。私の信じて愛していた兄は、気付かぬ間に兄ではない何かになってしまっておりました。兄が私に笑いかけるのが余計に精神をむしばみ、体調にもあらわれてきておりました。吐き気がしておりました。そんな私の様子を見て兄は喜んでいたようにすら思えました。
「和男、あんなよそ者と交わってはいけないよ。形式として夫婦を装うのはかまわないが、村の秩序を守るためでもあるんだ。父さん、あの男が戦死したのもそういう運命だったのさ。あの男も母さんの婿養子でソトモノだったっていうじゃないか。僕と和男も昔は二人きりでいたんだ。昔みたいにこの村に居続けることだってできる。何も不満なんてない。和男もそうだろう。」
兄は私を見てはいても、目は私を向いてはいませんでした。もしかしたら目が見えていなかったのかもしれません。それでも私はなお兄のことが好きでした。変わり果てて狂ってしまった兄を責める気にはなれませんでした。すべて私の身勝手のせいであり、私が兄を咎めるような資格はありませんでした。どれだけ狂ってしまっても兄は私の姿をした、私の神様だったのです。だからこそ兄にはこれ以上このままでいさせてはいけないと思うことが、私にできる最大の策だったと思います。私はうごかぬ足を無理矢理動かし、兄に詰め寄りました。「幸男はそれを望んでいるの」「勿論。和男のためだもの。」
最後まで兄は私のことを思ってくださっておりました。兄はそう言うと急に蹲り自身の腹を抱えました。足から水が垂れていることに気付き仰向けにさせると兄はみるみるうちに醜く、まるで蛙のような魚のような顔に変わっていきました。声も人が出すような声ではなくしゃがれた、聞くだけでおぞましい声を出しておりました。私は兄が兄じゃなくなってしまうのが悲しくてどうにか兄を止めたくなりました。結果、私は兄の首を絞めたのです。絞めにくかったのは皮膚がぬるぬるとしていたのもありますが、兄を殺さなければならないことを信じたくなく、殺すに殺せないようでありました。信じたくありませんでした。ですがその時はそれしかないと思っていたのです。兄は抵抗することはなく、最後まで笑っておりました。そして笑い声が消えた時、兄は死にました。
 兄の死体から離れる時一瞬だけ、しゃんと立ちあがることができました。そして跨っていたほうと反対の方を見ると兄の腹には臍がなく、足の付け根からは無数の、蛙の卵が水と一緒にありました。昔からよく沼や池で見たことがあったので蛙、それも殿様蛙のような卵であるとわかりました。私は驚いて腰を抜かしてしまい、以降再び足は動かなくなってしまいました。
 夜が明けてから村人と目覚めたサチを呼び、事情を説明しました。兄を私が殺したとも言いました。村人たちは大層驚いておりましたが、「心配することはない。幸男がそう言っていたのなら、幸男もまたおかえる様に帰っていくだけだし、和男が気に病むことではない。お前たちは仲が良かったから傷ついているだろうが、幸男は次のおかえる様になられたのだから安心するんだよ。」と言っておりました。私はまた絶望しました。村のしきたりに従えば兄を殺す私の選択は兄を解放するためのものではなかったのだと理解しました。
 きけば村で生まれる子は皆おかえる様が与える川の水で成長するためおかえる様の子どもであると言えるらしく、村人は死んだらおかえる様の川に流しおかえる様に返すという一連の流れのもと生活するという暗黙の了解があるようで、私も兄も幼少期それを教えられる機会がなかったため知らずにいたのだと言う。足が動かない私の代わりに兄は母から外から来たサチとの子を授かることなく子どもを作る方法を教えられており、そうしておかえる様に頼むことにされたようでした。自身の残りの命をおかえる様に渡す代わりに後から来るはず、つまりやがて死ぬはずの村人の命を兄に宿らせたらしい。おかえる様に選ばれた村人は段々おかえる様に近づいていくため臍がなくなったり、蛙のような顔つきや声になっていくのだと言いました。馬鹿馬鹿しい話だった。夜の兄の姿を見ていなければ私は決して信用することはなかったでしょう。そんな幻のような話を兄に信じ込ませてしまったことを悔やみました。やはり私は兄を一人にさせてはいけなかったのだと自分を恨みました。母親は朝になって見ると布団の中で骨だけのように乾いたミイラのような状態で発見されました。
 死体となった母と兄をそれでも見捨てることはできず、私はサチと二人の墓を作ろうとしました。母の方は謄本など戦時中焼けてしまったものが多く整理するのも然程難しくはありませんでした。兄と私の分は探してみたところ物置に綺麗に保管されておりました。きっと父が保管してくれていたのだと思います。しかしその時また奇妙なことに気付きました。私の臍の尾はあっても、兄のはなかったのです。双子でも臍の尾が一人一個あるのは同じなはずであり、私のがあるなら兄のがないはずありません。記録も生後すぐを記していましたし、今までの間でなくしたならともかく、兄のを入れていたような箱すら見当たりませんでした。誰かが盗んだ可能性もありましたが、外部の人間が他人の臍の尾を盗むことはまずないでしょう。村人も見当がつくものはいませんでした。様々な可能性を考えていた中、サチが父の日記を見つけたのです。と言っても十ヶ月分しかなく、どうやら母が身ごもった頃から書き始めたもののようでした。簡単にその日の母の状況や産まれてくる私たちのことを綴っていました。そして先ほどの違和感の正体をその日記の最終日が記していました。

四月一日 ツイニ生マレル 男一人 待チ望ンダ長男デアル 和男ト名ヅケル

 サチも驚いていた。私は驚くというよりも、ただ茫然とするしかありませんでした。もし父の日記と臍の尾のことが正しいのであれば、この家には私しか産まれて来なかったことになるではないですか。私は物覚えあるころから兄と一緒でした。兄とは顔も体も考え方も一緒でした。あんなに私と似ていた兄が貰い子であるわけがありません。村のしきたりを知った当時からしても外から身寄りのない子などをそう簡単に母が引き取ったりはしなかったでしょう。兄は間違いなく私の兄です。私は兄のことが大好きで、
兄も私のことを大切にしてくれて、

兄は私の神様だったのですから。

 

 

 サチとはその春に離縁し彼女の故郷に帰しました。決してこの村と私のことを秘密にすると約束をさせ。私も母と兄の骨を父と共に墓に埋めたあと、しばらく村に残り、兄のことを調べようとしました。しかし結局はっきりとしたものは見つかりませんでした。最終的に私自身村を去る決心をした頃には私は五十になっておりました。村で一番若いのが私でしたので村人たちは私を引き留めましたが、兄との思い出が多すぎるあの村にこれ以上いることはできないと思ったのです。兄が何者であったのかは今でもわかりません。本当に神様だったのかもしれません。兄は今でもあの村でおかえる様でいるのかもしれません。しかし私が大好きだった兄を殺したことに変わりはありません。村中が兄の死をなかったことにしようとも私だけは兄を私が殺したことを背負わなければならないと思っておりました。今まで生きたのは、その罪滅ぼしのつもりもありました。それで兄や誰かが許してくれるとは思いませんでしたが、死のうとも思えませんでした。
 今の屋敷に住むようになって十年になりました。未だ私のことを探す村の人間から逃れるため各地を転々としておりましたがここに長居することができたのは幸せでした。小さな男の子とも友達になることができ、兄を殺し生き残った分際で烏滸がましくもありますが、幸せな人生でした。
 私は村から逃げた一端として、あの馬鹿げた信仰を終わらすためにも自分の人生は自分で閉じなければなりません。先日「幸男」を探している者がいるという噂を耳にしました。それまではずっと和男を探していた村人の情報しか入ってきませんでしたが、どうやら七十三年の歳月の末やっと本当のことに気付いた輩がいるようですので、見つかる前にこの世から去ろうと思います。

これが私の人生の全てです。
どうか愚かな私をお許しください。

P.S. 弟へ
貴方の足はもう立派に水を駆ける足であること、兄は大変嬉しく思います。

                               あなたの兄より

 


 

「【閲覧注意】ありえないようなオカルト話まとめ4」より抜粋