菊花夜話

兄を探しています。

十六夜目 無題

※軽度のグロテスクな描写があります。

 

突然だけど、記憶喪失になったとき、あなたならどうしますか?
周りの人の言うこと、過去の自分が獲得したという物的証拠以外に、自分の存在を証明するも
のがほしかったら。──私は、インターネットを選びました。過去の自分が、本名をさらしてイ
ンターネットをする人間ではなかったという確認がしたかったのです。個人特定できるような
ことが書かれたブログやSNSが見つからなかったらいいな。いえ、見つかってもいいのです
が。それはそれで、過去の自分が垣間見えるわけですから。
赤瀬川久史、を検索欄に入れて、候補に「赤瀬川久史 事件」「赤瀬川久史 遺書」「赤瀬川久史
考察」が挙がったときの恐怖がわかるでしょうか。なぜ自分の名前が、さも当然のように検索
候補に挙がってくるのか。しかも連想検索の候補はことごとく不穏な単語ばかり。私はひどく
困惑して、まずは自分の名前だけで検索をしました。
信頼の置けそうな新聞社系のニュースサイトや警察のサイトを見てみて、どうやら『赤瀬川久
史』は、10年前の某日に起きたS県男子高校生失踪事件の当事者であるらしい、ということが
わかりました。10年前の某日、『赤瀬川久史』は同級生と別れたあと、そのまま帰ってこな
かった。それがわかったところでどうしたらいいんでしょうか。私は赤瀬川久史ではないんで
しょうか。私は痛む頭を抑えて、しばらく記憶をたどりました。目を覚まして、「赤瀬川、起
きたのか」と言われた、そのずっと前、靄のかかったその先をたどろうとして。私は恐ろしい
ことを、思い出しました。──私は、親友に殺されていました。
私の親友の名前は、禅野行孝、といいます。私と禅野は10年前、同級生で、禅野の家と私の
通っていた塾が近かったものですから、私たちはよく一緒に帰っていました。
私の母はいわゆる教育ママというか、学歴至上主義とでも言いますか、とにかくそういったひ
とで、私は幼少期からT大に進学しなさい、といわれて育てられ、小学生のころから塾に通わ
されていました。そういう人間にはありがちな話ですが私には友達が少なく、禅野は高校で、
いえ、たぶん人生で一番親しい人間であったでしょう。私と禅野は塾が始まるまでのわずかな
時間を見つけてはアイスやたい焼きを買い食いしました。母に知られていない楽しい時間があ
るという事実は、私の中のささやかな復讐心を満たすのには十分でした。
ある日の朝、私は模試の判定結果について母に長々と文句を言われ、だいぶ頭に来ている状態
で登校しました。一日中そのことを考えていて、ふ、と、「家出してみようか」と思ったので
す。その日は木曜日で、塾がありましたから塾をサボタージュして、一日くらい家を離れてみ
ても罰は当たらないんじゃないか、と。東京のほうに出てみて、少し遊んで、適当なところで
帰ろう。──私はまだ若く、無鉄砲でした。その話は、すぐに禅野にしました。「お土産、なに
がいい?」「銀座のケーキ」「まかせろ」「なあ、協力させてくれよ。お前と塾の前で別れ
た、って証言するから」私は快諾しました。親友は優しく、頼りになる人間でした。
私たちは放課後、普段通りに学校を出て、いきつけのたい焼き屋寄り道をしてから駅に向かい
ましたが、寄り道をしたことをあれほど後悔したことはなかったでしょう。架線火災により、
東京方面に出られる電車が終日運休になっていたのです。私たちは顔を見合わせた後、駅前の
茶店に入り、この後どうするかを相談しました。禅野は取りやめにしたら、といいました
が、私は絶対に今日家出しなくては気が済まない、と主張しました。禅野はため息を一つつく
と、「じゃあ、今夜はうちに来て、明日の始発でいきなよ」と言ってくれました。

禅野の家に上がるのは初めてでした。私ははしゃぎ、お菓子を食べたり、禅野の部屋を覗いた
りしました。──その晩、私は禅野に殺されました。夜中、息苦しくなって目が覚めると、禅野
が私に乗り上げて、首に手をかけているところでした。私はなぜか、そうなることを知ってい
たような気がして、暴れもせずに禅野を見上げていました。禅野はうすくらい、泣きそうな目
つきで、しきりに「赤瀬川がいけない、赤瀬川がいけない」と繰り返していました。呼吸はど
んどん苦しくなり、血管が頭の中で膨らむようでした。──そうして、私は死にました。
それを思い出した私の困惑を想像してみてください。それは絶対に事実で、禅野は私を殺した
はずですが、私はこうして生きていますし、私が会った禅野も殺人に問われているようではあ
りませんでした。私は変に思いながらS県男子高校生失踪事件について言及のある未解決事件
のサイトを開きました。事件後に被害者家族に複数回怪文書が届いたこと、被害者についてイ
ンターネットで定期的に情報提供を求める書き込みがあること、などの実感のわかない項目の
最後に、「投稿された赤瀬川久史の遺書とされるもの」というリンクがありました。更新日付
は、昨日です。私は思わずあたりに人がいないことを確認してから、それを開きました。
──私は、すべてを思い出しました。私はあの時殺されたのではなくて、気絶しただけでした。
私が気づくと禅野は普通に戻っていて、私たちは始発のために禅野の家の前で別れました。私
は東京に出て、──家に帰りませんでした。成り行きで風俗店のボーイとして住み込みのバイト
をはじめ、そのまま赤瀬川久史であることを隠して、10年、東京で暮らしていました。禅野は
私を殺していません。禅野が殺したのはあるいは、私ではなかったのでしょう。──禅野に殺さ
れた時の記憶はどんどん薄くなり、すぐにわからなくなりました。
「赤瀬川?」と私を呼ぶ禅野の声がしました。私は軽く返事をして、パソコンを閉じました。
私は生きていて、禅野は親友。それですべて丸く収まる話なのでした。

十五夜目 遺書(赤瀬川久史)

※この文章はフィクションです。
こんにちは。これは遺書です。
私の名前は赤瀬川久史と言います。この遺書は、私をよく知る人たちにではなく、私のこと
をほとんど知らないであろう、ネット上の見知らぬ読者の皆さんに向けて書かれています。
とはいえ、ネット上の皆さんであれば、逆説的に私の名前を知っている方も多いのではない
かと思います。私、赤瀬川久史は、未解決事件となっている10年前のS県男子高校生失踪
事件の当事者です。事件にまつわる証言の食い違い、報道の奇妙な動き、怪文書、電話、な
どが相まって、日本の未解決事件の中ではよく知られている方であると思います。
私はその事件の当事者です。当時の私は若く、無鉄砲でしたから、あのような事件に発展し
たのも当然のことと言えるでしょう。ですが、ここにその詳細を書くことはできません。そ
のために私を赤瀬川久史でないと思う方が多くても、仕方のないことです。ですが、私は赤
瀬川久史で、10年前の事件の被害者なのです。
10年間私がどこで何をしていたのかについても、ここで書くことはできません。これは私
のことを世話してくれたいろいろのひとに迷惑がかかるためで、それだけは私はなんとして
も避けたいのです。ですが書けることとしては、私はあの日S県を出て、そのあとは東京の
某所で暮らしていました。10年間、ずっと。
冒頭で、これは遺書だと書きました。私はこれから殺されます。
私をこれから殺すのはZという十年来の友人で、私によくいろいろなことをしてくれまし
た。勘のいい方はお気づきかと思うのですが、Zは10年前のあの日、私を最後に見た同級
生Aと同一人物です。ですが、Zを責めないでください。Zの証言はすべて本当のことです。
Zは私が失踪した後、私が見つかるようにと街頭でちらしを配ったり、ネットの書き込みを
見たりと、私のことを自分なりに探そうとしてくれました。Zは本当にいい奴で、私の自慢
の親友です。
Zが私を殺す理由や方法は、ここに書くことはできません。
ですが、殺すというのは比喩です。法に触れる行為をするわけではありません。私はただ、
Zによって殺される、という今後の事実を記録するためにこの遺書を書いていますし、その
事実を知ってもらいたくてこの文章をネットにアップする予定です。
私はこの遺書を書いた後Zに殺されますが、怖くはありません。私はZに殺された後もZに会
うことができますし、Zも私を殺したからと言って、罪に問われることはないからです。私
もZも、今まで通りにいい親友でいられることでしょう。ただ、そのためにはZは私を殺さ
なくてはいけないのです。それは、絶対です。なぜなのかは、書けませんが。
皆さんがこの遺書を読んでどのように感じるのか、どんな反応をするかは、私には想像もつ
きません。ですが、ここまで読んでくださった方にはどうか、お願いいたします。Zの殺し
がうまくいくよう、そして、私とZがまた幸福な親友でいられるよう、願ってくださいませ
んか。そんなたいそうな方法でなくてもかまいません。ちょっとそう思ってくれるだけでい
いのです。それだけで私は幸せです。

どうか、よろしくお願いいたします。そしてこれを読んでくださった皆さんにも、良いこと
がありますように。
赤瀬川久史

十四夜目 友人の実家の宗教がヤバかった件

※殺人の描写があります。

 

高校の頃の話だ。
当時の友人にオカルト趣味のやつがいて、俺はよくムー大陸やUFOの話を聞かされていた。俺としてもその手の話は嫌いではないのだが、そいつ(仮に田辺とする)は不思議と霊や祟りの話はしなかった。科学的なことしか信じないタイプ(科学的とムー大陸やUFOは矛盾しないのだ)かと思っていたが、どうも違うらしい。
「川井(俺のこと)、今度の連休、空いてる?」
「あー……たぶん予定ないけど……なんで?」
「おれ、田舎に帰るんだけど、よかったら遊びに来ないか?」
当時俺の家庭環境がヤバく、なるべく家に寄り付きたくないというのを田辺も知っていた。せっかくだからとその話に乗ることにした。田辺の実家は結構遠いらしいのだが、ちょうど月曜が休みで三連休になるので火曜には帰って来られるはずだ、という話だった。

当日は校門前で合流し、田辺のお父さんが運転する軽で三時間くらい走ったと思う。山の中だと聞いていたから事前に昼飯をマ〇クで買ってあったし、お菓子もある程度持ってきていたから、道中はそれなりに楽しく過ごした。意外にも田辺のオカルト好きはお父さん譲りらしく、二人でもムー的な話題で盛り上がっていた。

田辺の実家は某県のO町N区というところにある。市町村再編で合併する前はN村として独立した生活を営んでいたらしい。当然村の全員が顔見知りで家族同然、というか実際にほとんど全員が遠いとはいえ血縁関係にあるらしい。田辺のお父さんは入り婿だから肩身が狭い、とかそういう話を車中で聞いた。
N村、もといN区は山の中の開けたところで、石垣や生垣に囲まれた大きな家が何軒も立ち並んでいた。もちろん田舎だから家と家の間は最低でも車道くらいは空いている。
田辺の家も結構大きく、立派な日本家屋に庭まで付いているのだが、いわく「村の中では小さい方」らしい。これが都会と田舎の感覚の差というやつだ。そして田辺の家の玄関にはものすごい飾りがついていた。扉の両脇にデカいカエルが長い釘で磔にされている。ここまでの家にはなかったから、何か特別な意味でもあるんだろうか。
「これ……すごいね?」
「ああ、うん。うちはニ????だから」
田辺は嫌そうにカエルを見ながら家に入った。ニなんとか?はよく聞こえなかったが、実家の玄関にカエルが打ちつけられていたら誰だって嫌だろう。正直薄気味悪いヤバさはこの時点で感じていたが、今更帰るというわけにもいかない。仕方なく俺も田辺に続いた。

突然押しかけたにもかかわらず、田辺の家族に俺はえらく歓迎された。普通に実家に帰るよりも手厚くもてなされたかもしれない。俺は次から次へと料理を繰り出され腹がはち切れそうになっていたのだが、時々田辺に目をやると箸が全然進んでいないようだった。実家のこのノリが苦手なのかもしれないし、俺も正直なところそうだから、たいして気にはしなかった。
その夜は仏間というのか、広い和室に布団を敷いて田辺と二人で寝た。修学旅行っぽい空気になるのかなと思っていたが、そういうこともなく田辺は黙って寝たし、俺も特に何も言わず眠った。
夜中にふと目が覚めた。いや、目が覚めたというか、なんとなく意識だけがある状態で、半分夢をみているような気分だ。俺たちのいる部屋は壁の一面は外に、一面は隣の部屋に、そして残り二面は廊下に繋がっている。廊下に面しているところは障子で、廊下に非常灯が点いているので廊下を通るものがあれば障子に影が映るようだ。それを眺めていると、時折この家の飼いネコが通るようで、小さな鈴の音と共に小さな影がトトト、と障子を横切っていく。少しずつまた眠りに落ちる気配を感じていると、不意に背中の方から「ズズッ」と音が聞こえた。布団は二人分並んで敷いてある。背中の方には今田辺がいて、そしてその向こうは外に通じている。和風の古い家らしく縁側があり、硝子戸で外と内を隔ててあるのだ。ズズッ、という音は途切れ途切れに続いている。
田辺、縁側、そしてその向こう。きっとただの気のせいだ。なのに、そこに「何か」がいるのではないか……という妄想を、俺は振り払うことができない。ぞくりと凍り付く背中をなるべく振り向かないように俺は目を閉じ、意識が途切れるのを待った。
田辺に揺すられて気がつけば朝だった。夜中に見た夢がぼんやりと頭に浮かんだが、それもすぐに消えた。よく見れば田辺の眼が少し赤い。
「朝ごはんだから、起きて」
「昨夜ほど食えないぞ」
「たぶんそんなにないと思うよ」
田辺が苦笑する。たしかに昨日の夕飯ほどの量はなかった。

「これから何するんだ?」
朝食後、だらだらとデザートのヨーグルトを食べながら田辺に聞いてみる。大きいパックから器に取り分けるタイプのやつで、グラニュー糖をかけてはあるが酸味が強い。
「何って言われてもなあ……夜まで暇だよ。遊ぶとこもないし」
「夜まで?」
「山でも行く?」
まあそれしかないよな、という気持ちになった。夜になにかあるのかと聞こうと思ったが、靴紐を結んでいるうちに忘れてしまった。
それから森の中で虫をとるとか、穴を掘るとか、そういうことをやって時間を潰し、陽が傾き始めた頃に家に戻った。戻るとすぐに風呂に入れられ(泥だらけになったわけではない)、昨日とは違う浴衣を着せられた。白地に赤で模様が入っている。田辺とお揃いのやつだ。
昼はおにぎりを持たせてもらったが、男子高校生の胃袋には到底足りるものではなく、俺は腹ペコだった。なので夕飯には期待していたのだが、昨日ほどの量はなく、少しがっかりした。かといって厚かましくおかわりをねだれるほど図太くもない。昨日と同じように布団に入りながら、ふと思い出して、昨夜みた夢の話をした。田辺もちょっとだけ怖くなってしまえという下心だ。本当に何かが外を彷徨いていたと思っていないし、いたとしてこんな山奥だから野生動物だろう、くらいにしか思っていなかった。なのに、
「……聞こえちゃったか」
と深刻そうな顔で田辺が言うものだから、俺はたいそうビビってしまった。洒落怖は好きだが、自分が巻き込まれるとなるとそれこそ洒落にならない。
「や、やめろよそういうの!」
「ごめん、そんなに怖がると思ってなくてw 昨夜の音はさあ……おれが……」
田辺が恥ずかしそうに俯くので、ハッと察してしまった。朝、田辺の目元が赤かったのを思い出す。なんで、とか、聞くのはかわいそうだ。なんか嫌なことでもあったんだろう。祖父母にいびられてるとか。俺にもそういうのはあるのでわかる。
俺たちは並べられた布団にもそもそと入り、昨夜と同じに背中合わせになった。電灯の紐を引いて灯りを消す。
「もしさ……もし……おれが頼んだら、川井、おれのこと、」
――殺してくれる?
「なに、」
「ごめん、変なこと言った」
「なんだよ今の」
振り向いて田辺の布団に手を突っ込んだ。背中を引っ張る。
「ごめん……ごめん」
「ちゃんと話せよ」
問い質し続けると、とうとう観念したように田辺も俺の方を向いた。枕元の小さなライトをつける。
「……おまえも見ただろ。玄関のやつ」
「カエル?」
うん、と田辺はうなずく。
「うちはニギカなんだ。神様に贄を差し出す係。おまえとおれは、……贄なんだ」
それから田辺が教えてくれた話によると、数年に一度行われる村の守り神の祭りで、ニギカは二人の生贄を出すならいだという。「ニギカ」とは贄を供する係か家か、そういう意味なのだろうと田辺は推測していた。詳しい情報は失われてしまったが儀式だけが続いている。人口も戸数も少ない村のことだから、贄を出す家は持ち回り。今年は田辺の家が担当ということになる。
「ニエって、やっぱ殺されるのか?」
神に生贄を捧げる儀式というとやはりアステカのイメージだ。あんまり痛いのは嫌なので死ぬなら呆気なく死にたいな?と思っていたが、場合によっては叶いそうにない。
「"外"から選ばれた方の贄は、そう。"内"から選ばれた贄は……凌辱されるんだよ」
外からの贄はつまり俺だ。俺は殺される。そしてもうひとりの贄……田辺はリョウジョクされるらしい。
「リョウジョクって、なに?」
「あー、なんていうのかな、犯されるってこと……通じてない?難しいな!だから、なんていうか、その……」
徐々に田辺の顔が(薄暗くてもわかるくらい)赤くなり、とうとう布団にもぐりこんでしまった。
スマホで調べろ!バカ!」
「おまえより成績いいよ俺は!だいたいここ電波通じねーじゃん」
布団越しにくぐもった罵倒された俺は仕方なくスマホのアプリで調べてみる。しかしいまいち理解できないのでwebで検索をかけてみたが、電波が弱いうえにチャイルドロックでやたらにブロックされてほとんど何もわからなかった。わかったのはひとつ、子どもが見たらいけないやつということだ。
「えっちなやつなの?こんな言葉知ってるとかおまえもえっちだな……」
「おれがそうなんじゃないから!高校生にもなってなんだえっちて。涙乾いたわクソ」
布団の中でメチャクチャに蹴られまくってしまった。
ニギカは"内贄"として自分の家の誰かをひとり、"外贄"として村の外の人間をひとり差し出す。内贄は15?28歳程度でなければならず、外贄は内贄と年や背格好が近いもの。
儀式の内容は田辺もよくは知らないと言っていたが、とにかく外贄が死んだあと複数人で内贄を凌辱するという決まりであるらしい。その儀式によって孕んでしまう内贄もいたとかで、その子どもは"神子"として大事にされるのだとか。田辺もそんな"神子"のひとりなのだと言った。
「でもそれって田辺が選ばれるのおかしくないか?男じゃ子どもはできないだろ?」
「神子が生まれるのは結果だから、内贄の性別は関係ないんだ。まぐわう……あー、セックスするのが大事だから」
そういうもんなのか。
「ごめんな、変なことに巻き込んで」
「いや、おまえさ、俺がそのニエにされるの知ってて連れてきたんだろ?おまえがそこまで俺のこと嫌いとは思わなかったわ」
「違うんだよ……や、知ってたのは知ってたけど……おまえのこと嫌いじゃなくて、むしろ好きっていうか」
「好きな相手にする仕打ちかよ?!」
「だから違うんだって……おまえを死なせる気なんてないから!おまえの代わりにおれが……」
それで『殺してくれる?』に繋がるのか。
「あ?待てよ、じゃあおまえが死ぬのか?!おまえが死んで俺がリョウジョクされるのか?それも困るぞ」
「声がデカい、誰かに聞かれたら困る」
そう言って田辺は俺の衿を掴んで布団の中に引きずり込んだ。


翌朝、俺たちは塩握り飯だけの簡素な朝食を終え、浴衣のまま外に連れ出された。
「ふたりともお祓いをするからね」
と田辺の祖母に笑顔で言われたが、もう不穏なものしか感じない。
軽トラでドナドナされ森の奥の滝へ。滝のそばには簡素な小屋が建っている。嫌な予感、というかもう確信だが、予感は的中し、二人まとめて滝壺に突き落とされた。浴衣のままでよかったのか悪かったのか。滝壺は意外と深く、水面に顔を出したら足が全然底につかない。少し寒いが時期が時期なら普通に楽しいと思う。田辺も小さい頃はこうして遊んでいたのかな、とか考えていると、不意に水中のなにかに足を取られた。足をばたつかせて振り払えば解放されたので、水草か何かに引っかかったのだろう。
呑気に遊んでいるとさすがに怒られが発生し、首根っこを掴んで滝の下に放り込まれた。嫌というほど滝に打たれ、水から上がると、そばの小屋で着替えさせられる。浴衣と同じ、白地に赤の模様の着物だ。赤い模様は両肩から背中にかけて螺旋を描いて足元まで続いていた。結構しっかり着付けられたので(俺は着付けのことはわからないので)これは一度脱いだらもう一回着直すのは難しそうだ。
それから最後にお面を付けられる。自分がどんなお面を付けられたのかはわからないし、視界もよくないのであとは手を引かれるままだ。
そのままどこかの部屋に入れられ、二人きりになった。
「こんなんで本当に大丈夫なのかよ」
「いけるだろ、たぶん」
「たぶんっておまえな……」
俺と田辺はかぶらされた仮面を交換した。変な鬼のような、たぶんカエルがモチーフのやつなんだと思う。紐を解けなかったので上にすぽっと抜けてかぶり直した。
「これでおまえは、おれだ」
田辺が言う。その声が妙に重い。

それから俺たちは儀式の場所に連れていかれた。神主さんっぽい人がぬさを振りながら呪文を唱える。神社でお祓いをしてもらうのは初めてなのでよくわからないが。神主みたいな人か俺の前に刃物を置く。匕首というのか、鍔のない短刀だ。
神主らしき人が部屋を出ていき、俺たちはまた二人になった。仮面を外そうとする俺を田辺が制止する。
「儀式が終わるまでは外しちゃダメだ。"おまえ"が神様に見つかってしまうから」
外でお囃子が鳴っている。ドンドンと徐々に大きくなっていく。人の音が増えていく。騒がしい。

突然田辺がうずくまって唸りはじめた。
「えっ、どうした?腹が痛いのか?」
ぱきん、と田辺の仮面が割れる。そのまま落ちて、カタ、と硬い音を立てた。
田辺が顔を上げた。汗が滴る。
違う、これは田辺なんかじゃない。本能が察知したそれを、俺の理性は否定したがっている。
「鬆?コ上r隱、縺」縺」
「な、んだよ、今の」
田辺の口から出た声は言葉のように聞こえるのにまるで理解できない。全然知らない外国語で話しかけられてるみたいだ。
「雍?r謐ァ縺偵m縲∽ココ縺ェ繧九b縺ョ」
無造作に置かれたままの刃物をとる、田辺の手がこちらを向く。きれいなくらいにきらりと輝いて見せる刃に、俺は一瞬状況を忘れる。
「螟冶エ??蜻ス繧偵?ょ?雍??菴薙r縲」
刃が腕を掠めて、布の裂ける音がして、赤いものが散った。田辺の姿をしたそれが嬉しそうに笑う。そんな顔するんだ、と感慨深くなってる場合じゃない。
俺はとにかくがむしゃらに刃から逃げ回り、決死の覚悟で体当たりで田辺を押し倒すことに成功した。手から刃物を取り上げて投げ捨てる。
「どうしたんだよ、ふたりで逃げようぜ、こんなとこ、なあ」
「にげられるとおもうのか」
ぞっとした。
ささやくような声音は、たしかに田辺のものなのに、それは田辺の声じゃなかった。さっきまで外国語みたいなものを喋っていたそれが、たしかにそう言ったのだ。
「……おれを抱いてくれよ」
沈黙のあとに、ぽつりと田辺がそう言った。俺はおずおずと田辺に覆いかぶさり、両腕でぎゅっとする。田辺は無言だ。なんか言えよ。と思っていたら耳元で噴きだすのが聞こえた。がばりと体を起こすと、田辺は諦めたみたいに笑っていた。
「ばーか」
「なんだよ?!合ってるだろ?!」
俺が抗議すると、はいはいそうだな、と苦笑混じりのため息。完全にばかにされている。
「見ただろ、さっきの。おれは『神子』だから、神様が降りてきやすいんだ。だからおれを殺せば」
「それしかないのかよ」
「ないね。――言ったよな。おれを殺してくれるか、って」
田辺は本気だった。起き上がって跪き、拾い上げた刃物を自分の首にあてた。
「やれよ。おまえが生きのびるためだぜ」
俺は田辺の首筋に刃を押し付ける。鋭いきらめき。
呼吸の仕方も忘れそうだった。
「……巻き込んで、ごめん」
俯いたままで、首筋を差し出したままで、田辺が言う。
心拍数が上がる。これをしたら、俺は。
それでも俺は自分がかわいかった。
俺の手に熱いものが伝ってくる。
田辺。
その命。
俺の手で。
ともだちを。

俺は半狂乱で部屋を飛び出した。村人に見つかったら一貫の終わりだ。本当は死ななきゃいけないのは俺なのだ。この村を今すぐに出なくてはいけない。ここまでは車で数時間、走りきれる距離じゃない。田辺のお父さんの車に乗せてもらうことも考えたが、自分の息子を犠牲に生き延びた奴なんか普通助けてくれないだろう。来た道を戻るのは無理だ。俺は森に飛び込み、山をのぼり始めた。
木々の枝を払いながら走り続ける。裸の足が草や石で切れて痛むけど、立ち止まることも怖くてがむしゃらに足を動かしている。
逃げながら俺は背中になにかを感じている。呼吸が苦しい。仮面を外したい。町に戻るまでは絶対に仮面を外してはいけないと田辺は言った。「神様」に見つかってしまうからと。
外してしまったら、俺はどうなってしまうんだろう。


気づけばおれは病院にいた。
いつの間にか山を越え、反対側の町まで出ていたらしい。そこでおれは警察に保護された。手についていた血の量から怪我を心配されたが目立った外傷はなかったらしい。山の中で擦り傷や切り傷があちこちできていたが、その程度のものだ。その血は田辺のものなのだから当たり前だとおれは思ったが、どうやら手に付いていた血はDNAがおれのものと一致したらしい。ということはおれの血だったということになるわけだが、それもおかしな話だった。あれだけの血が出たら普通助からない。
『おまえは、おれだ』
田辺の言葉がリフレインする。まさか、そんなことあるわけない。

半月ほど入院して、カウンセリングを受けた。退院して翌月からは学校に復帰した。当然だがそこにあいつの姿はない。

 

 斎藤遥斗

十三夜目 藤色の男

※軽度の性描写、虐待・いじめなどの描写があります。

 

 私の兄も、ある日を境におかしくなり、ついにはいなくなってしまいました。これは警告です。藤色の目を持った男にはどうか、気を付けて。
 私より3つ年上の兄は、妹にはひどく粗暴でそのくせ親には上手く立ち回ってみせる、意地悪で賢しくてそのくせ要領の良い少年でした。私が小学校に上がる前から既に明確な上下関係は出来上がっていたように思います。その関係性は覆ることもなく、私が中学に上がり、兄は高校生になった数年前。その年がはじまりでした。
 女子校に進学した私は、兄の影に怯えることなく新しい自分の居場所を手に入れようとしていました。小学校までは、「××くんの妹」という呪縛から抜け出すことができなかった。兄は人気者だったので当然のように先生からの覚えもよく、相対的に「できない妹」というラベルを貼られていた私は、親を説き伏せて私立に進学しました。兄ばかりを可愛がっていることへの罪悪感が両親にあったかはわかりません。ともかく、どうにかして兄から、兄の残した影から逃れようと必死だった私はありとあらゆる策を弄して、自分の居場所を手に入れました。本を読んだこともないのに文芸部を選びましたが、それでも皆は優しくしてくれた。私がまっさらなままでいられる場所でした。
しかし、けれど、兄はすぐそれに気づいた。彼のそういった残虐さの原動力が何なのかはわかりません。妹をいつまでも自分の支配下に置いておきたかったんでしょうか、部活で帰りの遅くなる私を人目につかないところで詰り、また手を出すこともありました。腹部にできた大きな紫色の痣、昨晩蹴られたその傷のことを、私は両親に言うことができませんでした。彼が私を虐める理由はわかりません。だって、物心ついたときからそうだったのですから。もしかしたら両親も気づいていたのかもしれませんが、都立の有名進学校に通う兄に対して滑り止めの私立(私にとっては本命でしたが)に通う出来の悪い妹です。下手に騒いで兄の悪評が近所や親戚に知れるのは避けたいのでしょう。だから、生徒としては文句なしに優秀であった兄の優先順位が高くとも仕方ありません。私はそう思っていました。
 ある日突然、一人の男子生徒が家を訪れます。彼が藤色の男。少し色の白い、あまり見ないほどに整った顔立ちと紫がかった目を持つ、兄の同級生。私は一目で恋に落ちました。私はまだ彼の事を知らなかったから。あのおぞましい男の本性に気づくこともなく、恋心を募らせていきました。
兄が彼を「親友の〇〇」であると家族に紹介したその日から頻繁に遊びに来るようになった彼は、必然的に私との距離も縮まっていました。挨拶をすれば返事をして、時には褒めて、頭を撫でてくれる。そのうち私の事を名前で呼ぶようになった。まるで、彼は本当の兄のようだと、私は心から思っていました。
 だから、兄に反抗しました。部活で帰りの遅くなった私を罵る兄に、あの人は褒めてくれた、なんてことを言いました。私はあなたのものじゃない、あなたは私にとって兄ですらない、と。兄は顔を――真っ青に染めて言いました。「お前、俺がどれだけ、――」と。その先にある言葉は、聞こえなかった。その日以降、兄の横暴はなりを潜め、私はこう思いました。「あの人のおかげで、私は兄から解放されたのだ」と。
兄の呪縛を解いた私は、彼に想いを伝えることを決めました。あなたのおかげで自分に自信を持つことができた。それと、あなたが好きだ、と。戸惑いながらも話を聞いてくれた彼の返事は、次に家を訪れたとき。そう約束した翌日です。
彼に早く会って返事をもらいたい。その一心で学校から帰り着いた部屋の扉から、誰かの声がする。彼が先に来ていたのだとしてもなぜ私の部屋にいるのだろうか、もしかしたら兄に告白のことがばれたのではないかと。解いたはずの鎖に怯えながら私は、自分の部屋の扉を細く開けました。
驚きました。私の寝室で、兄はあの男に組み敷かれていた。狭い視界から伺える様子は限られ動く影しか見えないものの、相手はおそらく彼。兄は声を上げることもままならないようで、私も驚きのあまり声が出なかった。助けられなかった。扉に張り付いたまま目をそらせない私に気づいたのがどうかはわかりませんが、あの男の影は、だんだんと大きくなっていきました。化け物のようにぶくぶくと膨らむ影。化け物は兄の影をぱくり、とうまそうに飲み込んでから、みるみるうちに縮んでゆきました。
そうして帰り際、「もう来ない」とあの男は言いました。彼の目は真っ黒に澄んで、震えて身動きの取れない私の姿すら映していなかった。
 影を失ったあの日から、兄は何もかもを見ることをやめてしまいました。ただぼうっと、あの男そっくりの藤色の瞳で、瞼の裏に像をなぞっています。これを読んだ人はどうか、藤色の男には気を付けて。決して、取り込まれないでください。大切な人を奪われてしまう前に。

 

 匿名希望

十二夜目 ある卒業旅行での温泉の怪のこと

 

 厳しい寒さも和らぎ暖かい日が増えてきた三月のこと、高校を無事卒業した澄田は親友の笹生に誘われて隣県の観光地に卒業旅行に来ていた。
 昼食を駅近くの鯛出汁ラーメン屋で済ませた二人は、最初の目的地である美術館にバスで向かった。笹生が見たいと希望したその美術館は敷地内に広い庭園があり、いたるところに不思議な形の彫刻が点在していた。澄田は芸術のことはよくわからなかったが、極彩色で彩られた巨体の彫刻が林の中にでんとそびえている様には面白みを感じた。絵画や彫刻が好きな笹生は、事前に調べてきたのか多少知識があるようで、作品の意味や作者についてちょこちょこ解説を挟んでくれた。よく晴れた青空の下、綺麗に整備された庭園の中を歩くのは爽やかな気分だった。茶々を入れながら、作品を見てまわって二人は小旅行を満喫した。
 二時間ほど美術館に滞在したのち、本日宿泊する旅館に向かうべく二人はまたバスに乗り込んだ。
 「家族にお土産買ってこいって言われてさあ。まず温泉まんじゅうは必須だろ。澄田はなに買う?」
 「俺はまんじゅう以外がいい」
 「まんじゅう除け者にすんなよ」
 他愛もない会話をしているうちに、バスは山の間をどんどん登っていく。旅館の最寄りの停留所でバスを降りた。笹生が携帯で地図を確認しながら「こっちだ。すぐ近くだよ」と道を指し示す。実に順調な旅路である。そこまではよかった。
 旅館の前に到着したとき、澄田は愕然とした。
 「なんじゃこりゃ?」
 三階建ての黒ずんだ建物である。外壁にはヒビが入り、さらに暗緑色の蔓性植物が建物全体に寄生するかのごとく、びっしりと覆っていた。その背後には深い森が広がっている。見渡したところ、周囲にはコンビニも民家もない。その旅館だけが孤立して佇んでいる。建物のてっぺんにはカラスが一羽とまっていた。圧の強い外観に気おされて、澄田は後ずさった。
 笹生はいつもの呑気な調子で、
 「創業六十年の老舗旅館だからさすがに風格があるな。さ、行くぞ澄田」
 「……」
 「なんだその顔は?旅館のホームページのアドレスだって送っておいただろ。この旅館の写真も載ってたはずだけど。見なかったのか?」
 見ていなかった。旅行に際して宿の予約は笹生がした。それだけでなく電車やバスの時刻表や乗り換えを調べ、一日のタイムスケジュールまで段取りよく決めてくれた。笹生が選んだところなら問題ないだろうと安心して、澄田はなにひとつ調べていなかった。完全に人任せにしていた自分を恨んだ。
 「本当にこの旅館営業しているのか?」
 「当たり前だろ。旅館の人の前でそんな絶望に満ちた顔してたら失礼だぞ。さあ、チェックインしよう」
  「おおお押すなよ!」
 笹生は澄田の後ろに回りこんで、両手をつっぱるようにして強い力で背中を押してくる。俺を先に行かせようとするなんておまえも本当はびびっているのではないか――と澄田が笹生に言おうとしたとき、正面玄関から着物姿の女性が現れて、二人の方に近寄ってきた。
 淡い桜色の着物がよく似あう、三十代前半と思しき清楚な雰囲気の女性だった。
 「笹生様ですか?」
「あ、はい。そうです」
 笹生は澄田の背中に手を置いたまま横から顔を出して答えた。
 「ようこそいらっしゃいました。こちらにどうぞ。お疲れでしょう」
 この旅館の女将らしい。年上の女性に深々と丁寧に頭を下げられ、澄田と笹生はなんとなく照れ臭い気持とともに恐縮してお辞儀を返した。頭を上げた女将の顔には涼しげな微笑が浮かんでいた。
 女将の後についていき、ロビーでチェックインを済ませると中年の仲居が部屋まで案内してくれた。二階の突き当たりの部屋だった。「菫の間」と書かれた木彫りの板がドアの横に掲げられている。
 軽く部屋の中の説明をして仲居はすぐに去っていった。八畳間で、中央には黒塗りの座卓、障子の向こうの窓際には小さなテーブルと椅子がある。テレビの横の床には小さく可憐な花が花瓶に生けてある。ごく一般的な旅館の和室だ。
 二人は座布団の上に腰を下ろして休憩することにした。
 「どうしてこの旅館を選んだんだ?中はまあ普通だけど」
 「山中の怪しげな旅館ってある種のロマンを感じるだろ」
 「ふうん。本当は?」
 「ほかのとこより断然安かったんだ」
 「結局そこかよ」
 「なけなしの金をはたいての旅行だからな。安いところを探すのは苦労したよ。でもここ温泉で有名なんだってさ。知る人ぞ知る秘湯だって昔雑誌に載ったこともあるらしい」
 「そんなすごい温泉なら入らなきゃ損だな。早速行こうぜ」
 「そうしよう」
 二人は貴重品を金庫に預け、タオルを持って部屋の外へ出た。
 大浴場は地下一階にある。余力があるのでエレベーターを使わず、階段で行くことにした。スリッパをペタンペタンと踏みならしながら階段を下っていった。
 地下一階におりるとそこには長い廊下が一直線に伸びていた。廊下の壁の両側には額縁に入った絵が等間隔に飾ってあった。絵のサイズはまちまちだがざっと見たところ、どれも人物画のようだった。やや薄暗い廊下を彩るように絵は飾られていた。日傘を差したワンピース姿の女性、かっちりとスーツを着こんで強い眼光で睨む紳士、畳の上に正座して微睡む老女、描かれている人たちの年代も性別もバラバラだ。どの絵も近づいたら呼吸を感じられるんじゃないかと思うぐらい、リアルな筆致だった。
「なんだか少し怖いな」
 澄田は歩きながら絵を横目で見て言った。一方笹生の方は興味津々といった様子で見入っていた。
「そう?俺は好きだな。有名な人の絵なのかな」
 立ち止まってじっくり鑑賞を始めてしまった。そうやってまじめに鑑賞している友人の横顔は嫌いではないが、この場所はなんだか薄ら寒い気がしてならない。早く温泉に入って温まりたいと思った澄田は、「おまえはゆっくり見てから来いよ。先に行ってるぞ」と笹生に声をかけた。笹生は視線は絵に向けたまま「うん」と応えた。
 澄田は男湯の暖簾をくぐり、引き戸を開けた。靴棚にはスリッパが一組もなかった。つまり温泉を独り占めできるということだ。少し嬉しくなった。しかし、そもそも自分たち以外に宿泊客は居るのだろうか。
 広々とした脱衣場の棚には竹編みのカゴが並べてあった。服を脱ぎ、浴場へ向かう。ドアを開けた瞬間、湯煙がもうもうと舞う。壁に沿って長方形の大きい浴槽があり、いっぱいに張られた温泉から絶えず湯気が立ち上っている。
 浴槽の短辺と長辺に面した位置に洗い場があった。澄田は短辺側を選び、木製の低い椅子が三つ並ぶうち一番奥の場所に座った。
 備え付けのシャンプーを掌に出して泡立て、短い髪を洗う。シャワーで洗い流し終えたところで、ふと正面の鏡を見やると、浴槽の奥の方に人の姿が見えた。位置が離れており湯煙でよく見えないが、髪を洗うのに集中している間に他の客が入ってきていたようだ。貸し切りではなくなったことに若干の落胆を覚えながら、澄田はコンディショナーを手に取った。目を瞑って頭をもみこむようにして洗い、熱いお湯で洗い流す。
 目を開けて前を見ると、また鏡の中に映る客の姿が自然と目に入った。さきほどは大浴槽の一番奥に陣取っていたが、今は真ん中あたりに浸かって居る。ポジションを移動したようだ。大きい風呂を独占できているわけだから、好きな位置に移動し放題なわけだと思い、特に気にならなかった。澄田も旅館の広い湯船で人がいないときに泳いだ経験がある。
 さっきよりも距離が近づいたので客の横顔が確認できた。黒髪の若い青年だった。鏡越しとはいえ、じろじろ見るのもためらわれたので、その青年に視線を向けるのはやめて身体を洗うことに専念した。
 シャワーで流し終えていよいよ温泉に浸かるかと腰を上げようとしたとき、鏡を見て澄田はぎょっとした。黒髪の青年は浴槽の短辺に移動していた。それは澄田の真後ろにあたる位置で、青年は背中を向けて浴槽に浸かっている。青白い背中が見える。
 ――なにかおかしい。澄田は急速に寒気を覚えた。この青年はまるで澄田を目指して少しずつ移動してきているようだ。だるまさんが転んだをやっているみたいに、ちょっと目を離したすきに、確実に距離を縮めてきている。どうも妙な雰囲気だ。一刻も早くこの場を離れたくなってきた。
 それに、この青年の肌はやけに青白い。生きた人間じゃないみたいに――。
 澄田は温泉に浸かるのを諦めた。ここから一刻も早く脱出することを決意した。笹生はどうしただろうか。もしまだ絵を見ていたら一緒に部屋に引き返そう。そう心に決めて立ち上がりかけたそのとき、澄田は横を見て悲鳴をあげそうになった。
 数秒前まで背後で湯船につかっていたはずの青年が、澄田の右隣の椅子に腰かけてを蛇口をひねっていた。風呂からあがる音も気配もしなかったのにいつの間に――。澄田は息を呑みこんだ。温まりにきたはずなのに、いまや背筋が凍りつきそうだ。
 その横顔はやはり人間離れして青白い。というより透けているようだ。目を離せず、凝視していると、その視線に気が付いたのか青年がこちらに顔を向けた。初めて目線があった。
 青年は涼し気な目許をしていた。その瞳には、いたずらを楽しむような色が浮かんでいた。
 「あ……」
 一瞬、その顔に見覚えがあるような気がした。しかし見つめ合ったのは一瞬で、澄田はすぐに我に返り、青年の横をすり抜けて出口へと駆けた。
 ドアを押し開け脱衣場へ入ると、急いで自分のかごの前まで行き、タオルで乱暴に頭と身体をぬぐう。今にも追ってこられるんじゃないかと気が気でない。
 慌てて服を着ていると、笹生が脱衣場に姿を現した。
 「あれ、もう上がったのか?早いな」
 いつも通りの呑気な調子で話しかけてくる。
 「戻るぞ笹生!ここはやばい!」
 「え?なに?なんかあったのか」
 澄田が勢いよく頭を縦に振ると、まだ水気が残る髪から水滴が飛んで、笹生の顔に散った。笹生はそれを手の甲で拭いながら、怪訝そうに問う。
 「どうしたんだよ澄田。ちゃんと髪拭けよ」
 「いいから出るぞ!」
 「それはいいけど、澄田、下」
 動顛していて、ジーンズを穿くのを忘れていた。急いでジーンズに脚を通したあと、笹生の腕を掴んで裸足で廊下に飛び出した。スリッパは走りづらいので手に持っている。絵画が並ぶ廊下を走って突っ切る。階段を駆け上がって一階のロビーに出た。ここまで来ればひとまず安心だろうと、笹生の腕を放して一息つく。無理やり引っ張ってこられた笹生は、突然の疾走のせいで乱れた呼吸を整えている。
 「一体なんなんだよお……」
 「ここまでくれば大丈夫だろう……。それがな、さっき浴場で……ん?」
 そこでふと、ロビーの談話スペースに目がいった。時代を感じさせる振り子時計の真上に飾られた人物画。涼し気な目許をしている黒髪の青年。
 澄田は「あっ」と声を上げた。そこに描かれた青年はさきほど温泉にいた人物だった。笹生も澄田の視線の先にある絵に気が付いた。
 「ああ、ここにも絵があったんだな」
 「あら、その絵がどうかしましたか?」
 そこへ通りかかった女将が声をかけてきた。
 「温泉に続く廊下にもたくさん絵が飾られていましたね。全部同じ人が描いたものですよね?素敵な絵ですね」
 笹生が褒めると、女将は嬉しそうに微笑んだ。
 「ありがとうございます。実はこの旅館に飾ってある絵は私の弟が描いたものなんですよ」 
 女将は青年の絵の方へ顔を向けて、
 「この絵は弟の自画像なんです。褒めてもらえてあの子もきっと喜んでいますわ。弟はうちの温泉がお気に入りで、よく客として泊まりにきていました」
 涼し気に笑う女将の笑顔は、あの青年とよく似ていた。顔に見覚えがある気がしたのは女将の兄弟だったからかと澄田は納得した。そして気になっていたことを質問した。
 「あの、弟さんは今はどちらに……?」
 女将は静かに首を横にふって寂しげに笑った。
 「もう何年も前に弟は病気で他界しました」
 うっすらと予想していた通りの答えだった。間近で見たあの青年は透けるように白く生気が感じられなかった。澄田はもう一つ訊ねた。
 「……もしかして弟さんはいたずら好きな方でしたか」
 意外そうな顔で女将は澄田を見た。
 「どうしてわかるんですか?そう、人を驚かせるのが好きな子でしたよ」
 「なんとなくそうなんじゃないかと思って……ははは」
 澄田はひきつった笑いを浮かべてごまかした。――弟さんはなかなか悪趣味なサプライズが好きだったみたいだ。澄田は正真正銘、本物の幽霊を目にしたのだ。まったくとんでもない経験をしてしまった。そんな澄田を笹生は不思議そうに見ている。部屋に戻ったら、笹生に説明しようと思った。
 それにしても、死んで尚入りたくなる温泉とは、確かに余程素晴らしい温泉なのだろう。幽霊のお墨付きだ。しかし、澄田にはもうあの浴場に行こうという気力は残っていなかった。
 絵の中の青年は涼し気な微笑を浮かべている。


                              了    

 

 やした 

十一夜目 黄泉から還る

ヘテロラブの描写があります。

 

(メモ:某私立大学のオカルト研究会の合宿で百物語が行われた際に録音されたもの。語り手は三回生の男子学生)

 あ、僕の番か。ええと……これは、四年前に亡くなったうちの父にまつわる話です。そんなに怖くはないかもしれませんが、不思議な話ということで。
 父の趣味は山登りでした。と言っても、そんなに本格的な登山じゃありません。標高の低い山に時たまふらっと登りに行くくらいのものでしたから。そういうところだと家族で登りに来ている人も多いと思うんですが、父は一人で登りに行くことばかりでした。遊びに連れて行ってもらったことはちゃんとありますし家族を蔑ろにするようなタイプの父ではなかったんですが、僕が頼んでも母から言われても山には連れて行ってくれなかったんです。でも、昔一度だけ山登りに連れ出されたことがあって。確か小学校の二年か三年か、そのくらいのとき。朝早くに起こされて車に乗せられて、うとうとしてるうちに「着いたぞ」って言われて、もう訳がわかりませんでした。頼んでも全然連れてきてくれなかったくせにとも思いましたよ。流されるままに一緒に登りましたけど。
 不気味な雰囲気の山でした。生き物の気配が全然しなかったんですよ。普通は鳥の声とかするじゃないですか。でもそういうのがまったくなくて。登ってるうちに霧も出てくるし、歩き通しで足も疲れてくるし。嫌になってきて、父に「どこまで行くの」って聞いてみたんです。そしたら、「どこまで行きたい?」って逆に聞き返されたんです。そんなこと言われても困ると思って。だから正直に「もう帰りたい」って答えたんですよ。振り返った父は何か言いたそうな顔をしていたんですが、「じゃあ、帰ろうか」ってすぐに車に戻り始めて。結局なんだかよくわからなくて、僕の中でなんとなくしこりのように残る経験になりました。まあ、それでもそんなことはすっかり忘れてたんですよ。父が亡くなるまでは。
 父が不慮の事故で亡くなったあと、葬儀で父の友人の方に何人かお会いしたんです。そのうちの何人かの方が、僕の顔を見た瞬間まず怪訝な顔をしたりぎょっとしたような顔をしたりで。すぐに普通に挨拶してくださったんですが、内心なんなんだと思っていたんですよ。でも、数日後に遺品の整理をしていたときに理由がわかりました。古い写真が一枚、出てきたんです。アルバムにも貼らず、隠すように書斎の机の引き出しの奥にしまってありました。そこに写っていたのは、まだ学生らしい父でした。そして、楽しげに笑っている父の隣にはもうひとり同じ年頃の男が笑顔で写っていて。その男、どう見ても僕だったんです。
 ありえませんよね。目を疑いました。どう考えたってありえない。でも、他人の空似なんてもんじゃないくらいにそっくりなんです。僕自身としか思えないくらいに。気持ち悪くてしばらくの間その写真のことが頭から離れなかったんですが、父の友人の方で「何か手伝えることがあれば」と連絡先を教えてくださった方がいたのを思い出して。その方も僕の顔を見て驚いていたうちのひとりだったんです。この人に聞いてみたら何かわかるんじゃないかと思って、連絡を取ってみたんですよ。それで、お会いして写真を見せて、話を聞かせてもらったんです。少し悩んでいる様子でしたが、教えてもらえました。
 写真に写っている僕そっくりの男は、父の学生時代の友人だったそうです。二人はとりわけ仲が良かったらしく、一緒に遊びに出かけることもしょっちゅうだったとか。父が「よくちょっとした山登りに連れて行かれる」と笑いながらこぼしていたこともあったそうです。そもそも山登りはその友人の趣味だったんですね。で、それらしい人を葬儀で見かけた記憶がなかったので、その人が今どうしているのかを聞いてみたんです。そしたら、学生時代に亡くなったって。
 正確には、行方不明だそうです。一人で山に登りに行って、そのまま。遺体も見つかっていないそうです。そんなに険しい山じゃなかったそうですが、どこをどう彷徨ったのか、まるで消えたみたいに行方をくらましたそうで。結局、何か事故にでもあったんだろうということになったそうです。それ以降だそうですよ、父がときどきふらりと一人で山に上るようになったのは。友人がいなくなった直後の父は憔悴しきっていて、とても見ていられなかったそうです。その後、僕の母と出会ったことで心の傷も徐々に癒えていったんだろうと。「あんまりあいつに似ているから生まれ変わりかと思った」と冗談のように付け加えられて、話は終わりました。
 不思議なことは、これだけです。不思議なのかどうなのかもわかりませんね。その写真の男と僕が異常に似ているだけという解釈も一応はできますから。でも「山中異界」って言うじゃないですか。山の中は人の世じゃない。異界、つまり僕らがいる此岸と地続きの彼岸です。そう思うと、ね。……父は、時折僕を見て何か言いたそうな顔をすることがあったんですよ。山に一緒に登って、振り返ったあの時みたいに。きっとあの山は、その友人がいなくなったという山だったんじゃないかと思います。そして父は、こう言いたかったんじゃないでしょうか。「お前は、本当に俺の子供か?」「山から帰ってきた、あいつなんじゃないのか?」って。もう確かめようもありませんが。でも、あれ以来ときどき鏡を見ると怖くなりますね。父にも母にも似ていない、縁もゆかりもないはずのあの男そっくりの顔が映ってるんですから。僕は本当に、僕なのかって。

 

 匿名希望