菊花夜話

兄を探しています。

十三夜目 藤色の男

※軽度の性描写、虐待・いじめなどの描写があります。

 

 私の兄も、ある日を境におかしくなり、ついにはいなくなってしまいました。これは警告です。藤色の目を持った男にはどうか、気を付けて。
 私より3つ年上の兄は、妹にはひどく粗暴でそのくせ親には上手く立ち回ってみせる、意地悪で賢しくてそのくせ要領の良い少年でした。私が小学校に上がる前から既に明確な上下関係は出来上がっていたように思います。その関係性は覆ることもなく、私が中学に上がり、兄は高校生になった数年前。その年がはじまりでした。
 女子校に進学した私は、兄の影に怯えることなく新しい自分の居場所を手に入れようとしていました。小学校までは、「××くんの妹」という呪縛から抜け出すことができなかった。兄は人気者だったので当然のように先生からの覚えもよく、相対的に「できない妹」というラベルを貼られていた私は、親を説き伏せて私立に進学しました。兄ばかりを可愛がっていることへの罪悪感が両親にあったかはわかりません。ともかく、どうにかして兄から、兄の残した影から逃れようと必死だった私はありとあらゆる策を弄して、自分の居場所を手に入れました。本を読んだこともないのに文芸部を選びましたが、それでも皆は優しくしてくれた。私がまっさらなままでいられる場所でした。
しかし、けれど、兄はすぐそれに気づいた。彼のそういった残虐さの原動力が何なのかはわかりません。妹をいつまでも自分の支配下に置いておきたかったんでしょうか、部活で帰りの遅くなる私を人目につかないところで詰り、また手を出すこともありました。腹部にできた大きな紫色の痣、昨晩蹴られたその傷のことを、私は両親に言うことができませんでした。彼が私を虐める理由はわかりません。だって、物心ついたときからそうだったのですから。もしかしたら両親も気づいていたのかもしれませんが、都立の有名進学校に通う兄に対して滑り止めの私立(私にとっては本命でしたが)に通う出来の悪い妹です。下手に騒いで兄の悪評が近所や親戚に知れるのは避けたいのでしょう。だから、生徒としては文句なしに優秀であった兄の優先順位が高くとも仕方ありません。私はそう思っていました。
 ある日突然、一人の男子生徒が家を訪れます。彼が藤色の男。少し色の白い、あまり見ないほどに整った顔立ちと紫がかった目を持つ、兄の同級生。私は一目で恋に落ちました。私はまだ彼の事を知らなかったから。あのおぞましい男の本性に気づくこともなく、恋心を募らせていきました。
兄が彼を「親友の〇〇」であると家族に紹介したその日から頻繁に遊びに来るようになった彼は、必然的に私との距離も縮まっていました。挨拶をすれば返事をして、時には褒めて、頭を撫でてくれる。そのうち私の事を名前で呼ぶようになった。まるで、彼は本当の兄のようだと、私は心から思っていました。
 だから、兄に反抗しました。部活で帰りの遅くなった私を罵る兄に、あの人は褒めてくれた、なんてことを言いました。私はあなたのものじゃない、あなたは私にとって兄ですらない、と。兄は顔を――真っ青に染めて言いました。「お前、俺がどれだけ、――」と。その先にある言葉は、聞こえなかった。その日以降、兄の横暴はなりを潜め、私はこう思いました。「あの人のおかげで、私は兄から解放されたのだ」と。
兄の呪縛を解いた私は、彼に想いを伝えることを決めました。あなたのおかげで自分に自信を持つことができた。それと、あなたが好きだ、と。戸惑いながらも話を聞いてくれた彼の返事は、次に家を訪れたとき。そう約束した翌日です。
彼に早く会って返事をもらいたい。その一心で学校から帰り着いた部屋の扉から、誰かの声がする。彼が先に来ていたのだとしてもなぜ私の部屋にいるのだろうか、もしかしたら兄に告白のことがばれたのではないかと。解いたはずの鎖に怯えながら私は、自分の部屋の扉を細く開けました。
驚きました。私の寝室で、兄はあの男に組み敷かれていた。狭い視界から伺える様子は限られ動く影しか見えないものの、相手はおそらく彼。兄は声を上げることもままならないようで、私も驚きのあまり声が出なかった。助けられなかった。扉に張り付いたまま目をそらせない私に気づいたのがどうかはわかりませんが、あの男の影は、だんだんと大きくなっていきました。化け物のようにぶくぶくと膨らむ影。化け物は兄の影をぱくり、とうまそうに飲み込んでから、みるみるうちに縮んでゆきました。
そうして帰り際、「もう来ない」とあの男は言いました。彼の目は真っ黒に澄んで、震えて身動きの取れない私の姿すら映していなかった。
 影を失ったあの日から、兄は何もかもを見ることをやめてしまいました。ただぼうっと、あの男そっくりの藤色の瞳で、瞼の裏に像をなぞっています。これを読んだ人はどうか、藤色の男には気を付けて。決して、取り込まれないでください。大切な人を奪われてしまう前に。

 

 匿名希望