菊花夜話

兄を探しています。

十二夜目 ある卒業旅行での温泉の怪のこと

 

 厳しい寒さも和らぎ暖かい日が増えてきた三月のこと、高校を無事卒業した澄田は親友の笹生に誘われて隣県の観光地に卒業旅行に来ていた。
 昼食を駅近くの鯛出汁ラーメン屋で済ませた二人は、最初の目的地である美術館にバスで向かった。笹生が見たいと希望したその美術館は敷地内に広い庭園があり、いたるところに不思議な形の彫刻が点在していた。澄田は芸術のことはよくわからなかったが、極彩色で彩られた巨体の彫刻が林の中にでんとそびえている様には面白みを感じた。絵画や彫刻が好きな笹生は、事前に調べてきたのか多少知識があるようで、作品の意味や作者についてちょこちょこ解説を挟んでくれた。よく晴れた青空の下、綺麗に整備された庭園の中を歩くのは爽やかな気分だった。茶々を入れながら、作品を見てまわって二人は小旅行を満喫した。
 二時間ほど美術館に滞在したのち、本日宿泊する旅館に向かうべく二人はまたバスに乗り込んだ。
 「家族にお土産買ってこいって言われてさあ。まず温泉まんじゅうは必須だろ。澄田はなに買う?」
 「俺はまんじゅう以外がいい」
 「まんじゅう除け者にすんなよ」
 他愛もない会話をしているうちに、バスは山の間をどんどん登っていく。旅館の最寄りの停留所でバスを降りた。笹生が携帯で地図を確認しながら「こっちだ。すぐ近くだよ」と道を指し示す。実に順調な旅路である。そこまではよかった。
 旅館の前に到着したとき、澄田は愕然とした。
 「なんじゃこりゃ?」
 三階建ての黒ずんだ建物である。外壁にはヒビが入り、さらに暗緑色の蔓性植物が建物全体に寄生するかのごとく、びっしりと覆っていた。その背後には深い森が広がっている。見渡したところ、周囲にはコンビニも民家もない。その旅館だけが孤立して佇んでいる。建物のてっぺんにはカラスが一羽とまっていた。圧の強い外観に気おされて、澄田は後ずさった。
 笹生はいつもの呑気な調子で、
 「創業六十年の老舗旅館だからさすがに風格があるな。さ、行くぞ澄田」
 「……」
 「なんだその顔は?旅館のホームページのアドレスだって送っておいただろ。この旅館の写真も載ってたはずだけど。見なかったのか?」
 見ていなかった。旅行に際して宿の予約は笹生がした。それだけでなく電車やバスの時刻表や乗り換えを調べ、一日のタイムスケジュールまで段取りよく決めてくれた。笹生が選んだところなら問題ないだろうと安心して、澄田はなにひとつ調べていなかった。完全に人任せにしていた自分を恨んだ。
 「本当にこの旅館営業しているのか?」
 「当たり前だろ。旅館の人の前でそんな絶望に満ちた顔してたら失礼だぞ。さあ、チェックインしよう」
  「おおお押すなよ!」
 笹生は澄田の後ろに回りこんで、両手をつっぱるようにして強い力で背中を押してくる。俺を先に行かせようとするなんておまえも本当はびびっているのではないか――と澄田が笹生に言おうとしたとき、正面玄関から着物姿の女性が現れて、二人の方に近寄ってきた。
 淡い桜色の着物がよく似あう、三十代前半と思しき清楚な雰囲気の女性だった。
 「笹生様ですか?」
「あ、はい。そうです」
 笹生は澄田の背中に手を置いたまま横から顔を出して答えた。
 「ようこそいらっしゃいました。こちらにどうぞ。お疲れでしょう」
 この旅館の女将らしい。年上の女性に深々と丁寧に頭を下げられ、澄田と笹生はなんとなく照れ臭い気持とともに恐縮してお辞儀を返した。頭を上げた女将の顔には涼しげな微笑が浮かんでいた。
 女将の後についていき、ロビーでチェックインを済ませると中年の仲居が部屋まで案内してくれた。二階の突き当たりの部屋だった。「菫の間」と書かれた木彫りの板がドアの横に掲げられている。
 軽く部屋の中の説明をして仲居はすぐに去っていった。八畳間で、中央には黒塗りの座卓、障子の向こうの窓際には小さなテーブルと椅子がある。テレビの横の床には小さく可憐な花が花瓶に生けてある。ごく一般的な旅館の和室だ。
 二人は座布団の上に腰を下ろして休憩することにした。
 「どうしてこの旅館を選んだんだ?中はまあ普通だけど」
 「山中の怪しげな旅館ってある種のロマンを感じるだろ」
 「ふうん。本当は?」
 「ほかのとこより断然安かったんだ」
 「結局そこかよ」
 「なけなしの金をはたいての旅行だからな。安いところを探すのは苦労したよ。でもここ温泉で有名なんだってさ。知る人ぞ知る秘湯だって昔雑誌に載ったこともあるらしい」
 「そんなすごい温泉なら入らなきゃ損だな。早速行こうぜ」
 「そうしよう」
 二人は貴重品を金庫に預け、タオルを持って部屋の外へ出た。
 大浴場は地下一階にある。余力があるのでエレベーターを使わず、階段で行くことにした。スリッパをペタンペタンと踏みならしながら階段を下っていった。
 地下一階におりるとそこには長い廊下が一直線に伸びていた。廊下の壁の両側には額縁に入った絵が等間隔に飾ってあった。絵のサイズはまちまちだがざっと見たところ、どれも人物画のようだった。やや薄暗い廊下を彩るように絵は飾られていた。日傘を差したワンピース姿の女性、かっちりとスーツを着こんで強い眼光で睨む紳士、畳の上に正座して微睡む老女、描かれている人たちの年代も性別もバラバラだ。どの絵も近づいたら呼吸を感じられるんじゃないかと思うぐらい、リアルな筆致だった。
「なんだか少し怖いな」
 澄田は歩きながら絵を横目で見て言った。一方笹生の方は興味津々といった様子で見入っていた。
「そう?俺は好きだな。有名な人の絵なのかな」
 立ち止まってじっくり鑑賞を始めてしまった。そうやってまじめに鑑賞している友人の横顔は嫌いではないが、この場所はなんだか薄ら寒い気がしてならない。早く温泉に入って温まりたいと思った澄田は、「おまえはゆっくり見てから来いよ。先に行ってるぞ」と笹生に声をかけた。笹生は視線は絵に向けたまま「うん」と応えた。
 澄田は男湯の暖簾をくぐり、引き戸を開けた。靴棚にはスリッパが一組もなかった。つまり温泉を独り占めできるということだ。少し嬉しくなった。しかし、そもそも自分たち以外に宿泊客は居るのだろうか。
 広々とした脱衣場の棚には竹編みのカゴが並べてあった。服を脱ぎ、浴場へ向かう。ドアを開けた瞬間、湯煙がもうもうと舞う。壁に沿って長方形の大きい浴槽があり、いっぱいに張られた温泉から絶えず湯気が立ち上っている。
 浴槽の短辺と長辺に面した位置に洗い場があった。澄田は短辺側を選び、木製の低い椅子が三つ並ぶうち一番奥の場所に座った。
 備え付けのシャンプーを掌に出して泡立て、短い髪を洗う。シャワーで洗い流し終えたところで、ふと正面の鏡を見やると、浴槽の奥の方に人の姿が見えた。位置が離れており湯煙でよく見えないが、髪を洗うのに集中している間に他の客が入ってきていたようだ。貸し切りではなくなったことに若干の落胆を覚えながら、澄田はコンディショナーを手に取った。目を瞑って頭をもみこむようにして洗い、熱いお湯で洗い流す。
 目を開けて前を見ると、また鏡の中に映る客の姿が自然と目に入った。さきほどは大浴槽の一番奥に陣取っていたが、今は真ん中あたりに浸かって居る。ポジションを移動したようだ。大きい風呂を独占できているわけだから、好きな位置に移動し放題なわけだと思い、特に気にならなかった。澄田も旅館の広い湯船で人がいないときに泳いだ経験がある。
 さっきよりも距離が近づいたので客の横顔が確認できた。黒髪の若い青年だった。鏡越しとはいえ、じろじろ見るのもためらわれたので、その青年に視線を向けるのはやめて身体を洗うことに専念した。
 シャワーで流し終えていよいよ温泉に浸かるかと腰を上げようとしたとき、鏡を見て澄田はぎょっとした。黒髪の青年は浴槽の短辺に移動していた。それは澄田の真後ろにあたる位置で、青年は背中を向けて浴槽に浸かっている。青白い背中が見える。
 ――なにかおかしい。澄田は急速に寒気を覚えた。この青年はまるで澄田を目指して少しずつ移動してきているようだ。だるまさんが転んだをやっているみたいに、ちょっと目を離したすきに、確実に距離を縮めてきている。どうも妙な雰囲気だ。一刻も早くこの場を離れたくなってきた。
 それに、この青年の肌はやけに青白い。生きた人間じゃないみたいに――。
 澄田は温泉に浸かるのを諦めた。ここから一刻も早く脱出することを決意した。笹生はどうしただろうか。もしまだ絵を見ていたら一緒に部屋に引き返そう。そう心に決めて立ち上がりかけたそのとき、澄田は横を見て悲鳴をあげそうになった。
 数秒前まで背後で湯船につかっていたはずの青年が、澄田の右隣の椅子に腰かけてを蛇口をひねっていた。風呂からあがる音も気配もしなかったのにいつの間に――。澄田は息を呑みこんだ。温まりにきたはずなのに、いまや背筋が凍りつきそうだ。
 その横顔はやはり人間離れして青白い。というより透けているようだ。目を離せず、凝視していると、その視線に気が付いたのか青年がこちらに顔を向けた。初めて目線があった。
 青年は涼し気な目許をしていた。その瞳には、いたずらを楽しむような色が浮かんでいた。
 「あ……」
 一瞬、その顔に見覚えがあるような気がした。しかし見つめ合ったのは一瞬で、澄田はすぐに我に返り、青年の横をすり抜けて出口へと駆けた。
 ドアを押し開け脱衣場へ入ると、急いで自分のかごの前まで行き、タオルで乱暴に頭と身体をぬぐう。今にも追ってこられるんじゃないかと気が気でない。
 慌てて服を着ていると、笹生が脱衣場に姿を現した。
 「あれ、もう上がったのか?早いな」
 いつも通りの呑気な調子で話しかけてくる。
 「戻るぞ笹生!ここはやばい!」
 「え?なに?なんかあったのか」
 澄田が勢いよく頭を縦に振ると、まだ水気が残る髪から水滴が飛んで、笹生の顔に散った。笹生はそれを手の甲で拭いながら、怪訝そうに問う。
 「どうしたんだよ澄田。ちゃんと髪拭けよ」
 「いいから出るぞ!」
 「それはいいけど、澄田、下」
 動顛していて、ジーンズを穿くのを忘れていた。急いでジーンズに脚を通したあと、笹生の腕を掴んで裸足で廊下に飛び出した。スリッパは走りづらいので手に持っている。絵画が並ぶ廊下を走って突っ切る。階段を駆け上がって一階のロビーに出た。ここまで来ればひとまず安心だろうと、笹生の腕を放して一息つく。無理やり引っ張ってこられた笹生は、突然の疾走のせいで乱れた呼吸を整えている。
 「一体なんなんだよお……」
 「ここまでくれば大丈夫だろう……。それがな、さっき浴場で……ん?」
 そこでふと、ロビーの談話スペースに目がいった。時代を感じさせる振り子時計の真上に飾られた人物画。涼し気な目許をしている黒髪の青年。
 澄田は「あっ」と声を上げた。そこに描かれた青年はさきほど温泉にいた人物だった。笹生も澄田の視線の先にある絵に気が付いた。
 「ああ、ここにも絵があったんだな」
 「あら、その絵がどうかしましたか?」
 そこへ通りかかった女将が声をかけてきた。
 「温泉に続く廊下にもたくさん絵が飾られていましたね。全部同じ人が描いたものですよね?素敵な絵ですね」
 笹生が褒めると、女将は嬉しそうに微笑んだ。
 「ありがとうございます。実はこの旅館に飾ってある絵は私の弟が描いたものなんですよ」 
 女将は青年の絵の方へ顔を向けて、
 「この絵は弟の自画像なんです。褒めてもらえてあの子もきっと喜んでいますわ。弟はうちの温泉がお気に入りで、よく客として泊まりにきていました」
 涼し気に笑う女将の笑顔は、あの青年とよく似ていた。顔に見覚えがある気がしたのは女将の兄弟だったからかと澄田は納得した。そして気になっていたことを質問した。
 「あの、弟さんは今はどちらに……?」
 女将は静かに首を横にふって寂しげに笑った。
 「もう何年も前に弟は病気で他界しました」
 うっすらと予想していた通りの答えだった。間近で見たあの青年は透けるように白く生気が感じられなかった。澄田はもう一つ訊ねた。
 「……もしかして弟さんはいたずら好きな方でしたか」
 意外そうな顔で女将は澄田を見た。
 「どうしてわかるんですか?そう、人を驚かせるのが好きな子でしたよ」
 「なんとなくそうなんじゃないかと思って……ははは」
 澄田はひきつった笑いを浮かべてごまかした。――弟さんはなかなか悪趣味なサプライズが好きだったみたいだ。澄田は正真正銘、本物の幽霊を目にしたのだ。まったくとんでもない経験をしてしまった。そんな澄田を笹生は不思議そうに見ている。部屋に戻ったら、笹生に説明しようと思った。
 それにしても、死んで尚入りたくなる温泉とは、確かに余程素晴らしい温泉なのだろう。幽霊のお墨付きだ。しかし、澄田にはもうあの浴場に行こうという気力は残っていなかった。
 絵の中の青年は涼し気な微笑を浮かべている。


                              了    

 

 やした