菊花夜話

兄を探しています。

七夜目 tochu-gesha@2016-07-08.txt

※軽度の性描写があります。

 

 駅や電車にまつわる都市伝説や怖い話と言うのは、かなり多い。これは私の勝手な想像だが、終電を過ぎた駅や旅の帰りに乗る私鉄が見せる寂しげな顔、他人と共有する空間である車両にひとり残されたときのある高揚感に似た孤独。そんなものが、列車という人工物を何か得体の知れないものへと変えてしまうのではないだろうか。
 ところで、私も最近、顔見知りの経営プランナーから面白い話を聞いた。ある美術館の経営をサポートした一人のプランナーが関わる話で、少し前から美術系の案件を主に扱うプランナーの間では有名な話らしい。


 ある私鉄の終点近くの駅に、小さな美術館がある。その管理人からマネジメントの依頼を受けた男は、名前を須藤といった。須藤は7年前に大学を卒業したあと、同じ大学出身の先輩の下で数年経験を積みながらコネクションをつくり、3年前にやっと自力で仕事を取るようになった若き経営プランナーだ。経営学の傍ら趣味で勉強していた絵画や芸術関係の知識を生かして仕事をしている。
 その日の朝東京から出てきた須藤は、二両編成のワンマン列車を降車し、目の前にそびえる小高い丘と、たった二本伸びる道を見て途方にくれていた。
 二本の道のうち一つには、入り口に立ち入り禁止の札がかかっているから、道は間違えようがない。とはいえ人っ子一人居ないし見渡す限り緑に埋め尽くされているし民家は一軒も見当たらない。まさに、バラエティ番組でよく見る秘境駅といった感じの場所だ。
 手元の地図にはたった一つの宿泊施設と美術館以外に何も書かれていない。須藤はため息をついて、宿泊予定の施設に向かった。

「ごめんくださーい」
 カラカラとガラス障子を引いて声を上げる。玄関を上がったところには一足スリッパが用意されていた。
 薄暗い廊下がぱっと明るくなって、おくからパタパタ足音がした。
「ようこそいらっしゃいました。須藤様でいらっしゃいますね。私はこの旅館の女将で、由里乃と申します」
 薄桃色の着物に前掛けをつけた女性が、須藤に向かって深々と一礼する。彼女の年齢は、恐らく40~50歳といったところだろう。
「はい。暫くの間お世話になります。よろしくお願いします」
 須藤も由里乃に頭を下げた。
 高級旅館のようなもてなしではないが、由里乃の気楽な声や微笑には、ほっと息をつけるような安心感がある。

「ええ!? あんな遠いところまで?」
 部屋に案内してもらう途中、美術館の話をしたら、由里乃が驚いたように声を上げた。
「そんなに遠いんですか?」
 須藤は依頼人から貰った地図を由里乃に見せた。
「あの、山の中腹にある建物のことでしょう? あそこって美術館だったのねえ。知らなかったけど、とにかく歩いたら3時間はかかるわ。須藤さん、免許はお持ちですか?」
「ええ、一応……。でももう三年は乗ってないですよ」
「それなら、明日は主人に車を出させるわ。バスも電車もないし、あんなところまで歩けないわよ」
「ええっ、いいですよそんな」
 須藤は由里乃の提案を慌てて断ったが、結局由里乃に押し切られる形となり、翌日は旅館の主人に美術館まで送迎してもらうことになった。
 部屋に通された須藤は、夕飯までの間、東京からこの場所までのアクセスと、女将に聞いたこの旅館の部屋数と宿泊可能人数、それから美術館までの交通手段がないことをノートにメモした。美術館を経営するには、かなり前途多難といえそうだ。

 翌朝、東の窓から差し込む朝日で須藤は目を覚ました。ひんやりとした空気が気持ちいい。小さな旅館で宿泊者も多くないはずだが、ふかふかの布団と畳の部屋で、快適な夜を過ごせたと思う。須藤は、この旅館のためにも美術館の計画を上手くいかせられたら、と思った。
 歯を磨き、髪の毛をとかして、顔を洗って髭を剃る。水が死ぬほど冷たかったが、それはきっと水が井戸水だからだろう。昨夜女将が井戸から直接くみ上げていると言っていた。
 食堂に行くと、須藤の分の食事だけが用意されていた。どうやら須藤以外に宿泊者はいないらしい。
 焼いた塩鮭に味つけ海苔、ご飯、お新香、梅干、味噌汁。教科書どおりの旅館の朝食だ。文句のつけようがない味。須藤は最後の米一粒までしっかり食べきって、「ごちそうさまでした」と手を合わせた。
「それじゃあ須藤さん、車の用意ができましたので、どうぞ」
 須藤が食べ終わるのを待っていたかのように、背後から男性の声がした。旅館の主人だった。
「おお……」
 外に出た須藤は、感嘆とも驚きとも着かぬ声を漏らしていた。用意されていたのは白い軽トラック。見たことはあっても乗ったことはない。
「僕、軽トラ乗るの初めてです」
「そうですか。少し畑をやってる関係で、うちにはこれしか車がなくて」
 主人は大きな体を揺らした。
「ちょっとわくわくします」
「それはそれは」
 通勤鞄を抱えなおす須藤を見て、主人は目を細めた。
「須藤さん、おいくつなんですか」
 舗装のない道を睨む主人が須藤に尋ねた。
「今年で29になります」
「そうなんですか。お若く見えますね。うちの娘と同じくらいかと思っていました」
 主人の言葉に須藤は苦笑した。
「よく言われます。個人的にはもう少し年相応に見えるといいと思ってるんですけどね。……娘さん、おいくつなんですか」
「もう22になります。大学に行くんで東京に出て、最近はあまり帰ってきませんが」
「それは寂しいですね」
 須藤の言葉に、主人は無言で返す。肯定か否定かというと、肯定だろう。
 そんなことを話しているうちに、白い建物が見えてきた。
「あれですか?」
 主人が須藤に訊いた。
「ええ、多分そうだと思います」
 主人は軽トラックを美術館の門の前につけた。
「それじゃあ、午後六時ごろにまた迎えに来ます」
「何から何まですみません。ありがとうございます」
 須藤は主人にぺこりと頭を下げた。

 美術館は洋風の平屋だった。もともと白かったであろう門には金が埋まっていたが、それもくすんでしまっている。須藤は頭の中で『要清掃』と呟いた。
 中に入ると、蟻の巣のように連なった部屋がたくさんあって、そのほぼ全てに銃器類が詰まっていた。美術館と言うより武器庫のほうが正しい。依頼人は、地下のアトリエにいると書いてあった。
 薄暗い廊下をどんどん地下に潜っていく。日の光が当たらなくなると、周りはいっそう暗くなった。それでも目が見えるのが、少し不思議たった。
 階段を降りきると、長い廊下の先に、大きなスチール製の重そうな扉が見えた。それ以外にドアらしきものは一つもないから、あれがアトリエの扉だろう。
 須藤は、扉の前に立って、二回ノックした。
「こんにちは!」
 声を上げても、中から返事はない。もう一度、今度は強くノックする。
「こんにちは! 先日以来を承りました、須藤です!」
 今度は、中から聞こえた。
「どうぞー!」
 須藤はスチール扉を思いきり引いて、中に入った。
 中にいたのは、エプロンを着て長い茶髪を後ろで括った一重瞼の男だった。背は須藤より少し高いくらいだろう。
「こんにちは」
 茶髪の男は笑う。
「こんにちは。はじめまして」
 須藤は鞄から名刺を出して男に渡す。
「これはご丁寧にどうもありがとうございます。私が依頼人です。ええと、すみません、私は名紙を作っていなくて……」
 男はそう言って、名紙を大事そうにエプロンの下に着ている服の胸ポケットにしまって、近くの画用紙を少し切り取って、近くにあったペンで『美術館オーナー A』と書いて須藤に渡した。
「A……さん?」
「はい。アルファベットのA、アーティストのAです。とりあえずそういうことにしておいてください」
「はあ……」
 須藤は首をかしげながらも無理矢理自分を納得させて、その即席の名紙を名刺入れにしまった。
「こんな辺鄙なところまで、ご足労をおかけしました」
 Aはアトリエの端の作業台でお茶を淹れながら申し訳無さそうに言う。
「いいえ。こういうところもたまには悪くないです。何事も経験ですから」
「そう言っていただけるとありがたいです」
 そういいながら、Aは須藤にお茶を出した。立ち上る香ばしい香りは玄米茶のものだ。
「粗茶ですが、どうぞ」
「ありがとうございます」
 須藤はお茶に手をつける。茶菓子はカステラだった。
「それで、ご依頼の件は、ここを美術館に改装したい、ということでよろしいでしょうか」
「はい」
 Aは須藤の言葉に頷いて続ける。
「実は、このアトリエの奥に部屋があって、そこに多くの絵画作品が眠っているんです。それをどうにか展示できないかと思って」
「Aさんの作品ではないのですか?」
「ええ。遠い親戚の遺作です。とにかく沢山あって、そのどれもが目を見張るほど素晴らしい作品なんです。私も全てを見たことは無いのですが……。少し、見てみますか」
 須藤はAの提案に頷いた。どんな作品を展示するのか、というのは知っておいて損はない。
 Aはアトリエの奥の扉を開けた。入ってすぐのところに、巨大な油絵がある。等身大より大きな、男の背中を描いたものだった。
「……」
 須藤は絶句した。そのデッサンの正確さや色の緻密さにも驚かされたが、傷ついて抉れた男の背中の迫力と、それから立ち上る妙な艶かしさに魅せられてしまったからだ。
「すごいでしょう」
 思わず後ずさる須藤の背中を、いつの間にか後ろに回っていたAが抱きとめた。
「な……なんですか、これ……。こんなものが、世の中に出ないで、ここに、こんなところに、ある、なんて……」
 須藤の声は震えていて、その体も同じく震えていた。
「そうでしょう! あなたも、そう思いますか!」
 Aは須藤の肩を持って揺さぶった。
「これを、多くの人に見て欲しい。私はそう思ったんです! だからあなたをここに呼んだ」
 Aの剣幕に押されて、須藤はゆっくりと頷く以外できなかった。

 アトリエに戻ってAと須藤は湯飲みに残ったお茶を飲み、なんとか落ち着くことに成功した。奥の部屋で、二人は妙な興奮に包まれてしまっていた。
 一息入れたところで、須藤はノートを出して大まかなプランを練ることにした。
「まず、この建物のどのくらいの部屋を使って展示をしたいですか?」
「……そうですね。作品の劣化を防ぐために、地下一階を展示スペースに使いたいと考えています。あまり人を雇えないので、展示スペースはワンフロアが限界じゃないかと思うのですが、どうですか?」
「作品数にもよりますが、そうですね。この建物は土地を広く使っていますし、清掃や管理を考えると、ワンフロアか、使えてプラス半分くらいですね」
 須藤はノートにメモをする。
 そのあとも何度かAと須藤はやり取りを繰りかえし、気付けば時刻は午後六時を回ろうとしていた。
「――いけない! 旅館のご主人が迎えに来てくれる時間だ」
 須藤はそう言って荷物をまとめ始める。
「それは急がないと。すみませんでしたね」
「いいえ。僕も熱中してしまって。また明日来ます」
 須藤は最後にノートを閉じて鞄に入れた。
「ええ。お待ちしております」
 Aはにっこり笑って須藤を送り出した。

 それから二週間、須藤は旅館に滞在していたが、計画の採算をとるあたりで相当難航していた。滞在期間は予定をはるかに越えていて、これ以上旅館に泊まることは経済的に難しかった。
 そのような事情を、須藤が会話の合間にぽろっとAに零したら、Aは「ここに来ますか?」
と言い出した。そこからの展開は早く、Aに言われるまま須藤は旅館の夫婦に感謝と謝罪を述べて、美術館に転がり込むことになった。
 採算をとる計画をするのは須藤の仕事だ。何とかならないかと部屋で唸っていると、Aが気分転換に力仕事をしないかと持ちかけられて、アトリエの奥の部屋から絵を運び出す作業をすることになった。
 まだ美術館になると決まったわけではないが、部屋の空気を入れ替えたり、掃除をしたりするついでに、とAは言った。
「全部、いい絵ですね」
「でしょう?」
 外に出して並べられた絵画を見て、須藤はそう漏らした。
裏の日付の順に並べると、ある時期から人物画が圧倒的に多くなっている。そのほぼ全てが、傷を負った兵士の絵だった。日付によるともう、数百年は昔の絵たちらしい。
「兵士の絵を描く仕事でもしていたんでしょうか」
 須藤はAに訊いてみるが、Aもよく知らないらしい。

 Aが館内をもう一度見て計画を考え直してみる、というので、須藤はアトリエの中で絵を見て、宣伝について考えてみることにした。
 過激な絵が多い。一般向けに宣伝をするのは難しいだろう。子供向けでもない。しかし……。
 そんなことを考えながら、絵画を一枚一枚見て、そして、奥の部屋で、傷だらけの背中の絵を見つめた。
 男の背中の絵は、他の絵と印象が違った。
 他の絵は、ただ死にゆく人間を写真のように写し取った無機質さがある。普通の写真よりは、レントゲン写真を見ている気分に近い。
 奥の部屋の絵は、違う。傷口から流れるおびただしい量の鮮血、男の足元には血を吸って重そうなコートが落ちていて、その背中から呼吸が聞こえそうなほどにリアルな、絵。しかしおどろおどろしさとは少し違って、その腰のラインや髪の生え際は妖艶だ。
 その時須藤は、カンバスの端にこびりついて黄色くなった、恐らく元は何か粘り気のある液体であったらしい、何かを見つけた。
 須藤はそれを、知っている。たぶん、何度も体内から吐き出したことがある、それだ。それを吐き出すときの高揚感と多幸感を、恐らく一定以上の年齢の、ほぼ全ての男は知っている。
 その時、画面の中の男が、身じろいだ、と思う。恐らくそれは、見間違いでなく、恐らく。

 須藤は弾かれたようにアトリエから飛び出した。Aを探した。
「――Aさん!」
 武器庫の中で腕を組んでいたAを探し当てて、須藤は叫んだ。
「どうしたんですか、そんなに慌てて」
「あれは、駄目だ……!」
 須藤は目の前の男に必死に訴えた。
「あれは、たぶん、誰かに見せるためにかかれた絵じゃない、きっと……」
 背中を流れていく汗でワイシャツがびっしょりと濡れていくのがわかる。
「きっと、生かすための、絵……でしょうね」
 Aは唇の両端を吊り上げた。須藤はすり足で後ろに下がる。
「だから、人の目に晒して、監視して、殺さなければならない」
 Aのシャツの下に透ける背中の肌にいく筋もの傷が刻まれていることは、須藤には知りえないことだ。


 ――その後、須藤さんとやらの姿を見たものはいない、というお決まりの文句が出たところで、私の知り合いの話は終わっている。
 それはさておき、私はいまなんとかっていう私鉄に乗っているんだけど、それにしてもこの列車、短すぎる気がする。バスのほうが長いんじゃないだろうか。

 

B市連続ひったくり事件被疑者自宅押収品⑬microSDカード内データ より