菊花夜話

兄を探しています。

六夜目 落下する夕焼け

※グロテスクな描写があります。

 

耳元で、ぐしゃりと弾ける音がした。
 視界が真っ赤に染まる。鼻腔を抜ける錆びた匂い。生温い温度が全身を包む。手にはぬるりとした嫌な感触。

 赤、橙、鈍色、深紅、あか、あか、あか、
 世界が赤く染まる。

 僕は唇を引き延ばして笑う。嗤っている。何故わらっているのかわからない。

ただ…… あぁ、生きている。と

 そう、思った。

 


 『なぁ、図書室の話知ってるか?』
 「図書室?」
 『所謂、学校の怪談ってやつだよ』
 「好きだね、そういう話」

 友人のSは噂話が好きな質で、何処から仕入れてくるのか分からないような、怪しげな話を僕に聞かせるのが常だった。

 騒つく教室の中で、Sは僕の耳元に顔を近づけてヒソヒソと話す。その距離の近さに戸惑ってしまう。

 「おい、近いよ」
 『近くないと聞こえないだろう?』
 「別に怪談なんて聞きたくもないね」
 『そんなこと言いながら、いつもちゃんと聞いてくれるよな』

Sの笑う顔が視界の端でチラチラと点滅する。Sと話していると、何故だか疚しい気持ちが擡げてくる。

 『まぁ、暇つぶしでいいからさ、聞いてくれよ?』
 「わ、分かったよ、面白くなかったらその口塞いでやるからな」
 『その科白誤解を招くぞぉ』

あははと笑うSの間延びした声が、やけに耳に張り付いた。頭の中で意味を成さない単語が木霊する。頭が痛い。お構いなしにSは話を続ける。此奴はただ、喋りたいだけなのだ。僕が聞いているかどうかなんて関係がない。だから僕はぼんやりと聞き流すようにSの声に耳を傾けた。

 『昔さ、この学校で死んだ奴が居たんだ』
 「古い学校だから、それなりに死んだ奴も居るだろう?」
 『「この学校で、」って言っただろう?其奴はさ、この学校の図書室の窓から落ちて死んだんだよ』

Sはまるで見てきたように淡々と言った。

 『ほら、この学校の図書室って最上階にあるだろう?だから其奴は真っ逆様に落ちて、それはもう酷い有り様だったらしい』
 「そんな話聞いたことないけどな。そもそも漫画や小説みたいに学校で人が死ぬなんてこと、そう頻繁に起こらないと思うけど」
 『お前の身近で今までなかったというだけで、そう珍しくもない話だよ?毎日何処かで人は死んでるんだから』

そう言われると、そうとしか言えない。人の死が身近にないというだけで、生き物というのは死ぬものだ。自然の摂理なんだから珍しくもない話だ。

 「なんだかはぐらかされてる気分だな」
 『あぁ、嘘だと思ってるだろう?でもその証拠にうちの図書室、終業のチャイムと共に閉まるだろう?放課後の使用は許可がいるし、必ず教員が付き添う決まりだ』

 確かにそうだった。気にも止めなかったが、おかしな話だ。図書室なんて調べ物か勉強か暇つぶしをする場所だ。授業以外で使うなら放課後の方が都合がいいはずだ。でも使うことが出来ない。それには理由があるということか。

 「信憑性があると云えなくもないな」
 『だろう?気になったからな、ちょっと調べてみたんだ』

そう言ってSが机から取り出したのは新聞の切り抜きをコピーしたものだった。


 平成〇〇年 〇月〇日 金曜日

 市内のK高等学校の生徒である〇〇〇〇〇〇君(17歳)が校庭の校舎脇で倒れているのを見回り中の教師が発見した。〇〇〇〇〇〇君は直ぐに近隣の病院に搬送されたが、病院にて間も無く死亡が確認された。
   〇〇〇〇〇〇君が発見された場所は図書室の真下であり、見通しの悪い校舎の脇であったため目撃者などは無く、発見が遅くなったと思われる。また現場検証の結果〇〇〇〇〇〇君は図書室の窓から落ちたとみられる。
   発見場所である校舎脇や図書室には争った形跡等はなく、図書室には〇〇〇〇〇〇君が読んでいたと思われる本が放置されていた。警察は事件、事故両面から捜査をすると発表している。

 「割と最近なんだな」
 『そう、意外にも最近なんだよ』
 「事故なのか?それとも自殺とか?」
 『その後詳しいことが報道されることはなかったけど、遺書もなく現場にそれらしい形跡もなかったから事故として処理されたらしい』

よくある結末といえば、そうなのかもしれない。

 現実は解明されない謎の方が多いのだ。目撃者もなく、物的証拠もなく、それなりの状況証拠があれば事実が如何であろうとも『事故』で処理される。分かりやすい収束を第三者は望んでいる。それがないと人は非日常を終わらせることが出来ないからだ。

 「で?話はそこで終わりじゃないんだろう」
 『察しがいいね。この怪談はここから話が始まるんだ』

 生徒(仮としてAと呼ぼう)が死んでから暫くは、遺体の発見された校舎脇や図書室が閉鎖されたりしたんだけど、数週間もするとそんな『事故』があったことなど皆んな忘れたかのように、元の日常が戻ってきたんだ。

 『薄情なようだけど、段々と噂にも登らなくなっていった』
 「現実は日々新しい事件や事故で溢れているからな」

そんなある日の夕暮れにそれは始まったらしい。

 忘れ物を取りに校舎に戻ってきた女子生徒がふと人の気配を感じて、普段は寄り付かないあの校舎脇に足を運んだんだ。

 辺りは燃えるような夕焼けで真っ赤に染まっていた。丁度、生徒Aの遺体が発見されたのもそんな夕暮れの日だったらしい。女子生徒はそんなことは知らなかったけれど、そこで亡くなった生徒が居ることは知っていたから、何となく嫌な雰囲気を感じて、足早にそこを立ち去ろうとした。

 『その瞬間、ヒュッという風を切るような音が響いた』

 女子生徒はその音が頭上からすることに気がついて、空を見上げたんだ。

 『すると、空から真っ逆様に落ちてくる人間が目に飛び込んできたんだよ』

 落ちてくる人間は嗤っていた。

にぃっと口元を引き裂くようにして嗤うのが、よく見えるのにその眼は真っ黒に陥ち窪んでいてよく見えない。

スローモーションのように落ちてくるそれから、女子生徒は目が離せなかったそうだ。

それは段々と地面に近づく、止められない、今か今かと迫ってくる。

 地面に吸い込まれていく。

 女子生徒の目前でそれが赤く弾けた。

ぐしゃり

果物が潰れるひしゃげたような、嫌な音が鼓膜に響き渡る。

 同時に、女子生徒の身体にびしゃりと生温いものが浴びせられた。

 女子生徒の鼻腔には鉄錆のような嫌な匂いがむわぁっと広がる。

 腰を抜かしてへたり込んだ女子生徒の目の前には、あり得ない形に折れ曲がった人形のような死体が転がっていたんだ。女子生徒は声も出せずにただ、青い顔で震えながらそれを眺めていた。

 真っ赤に染まる夕焼けと投げ出されたように折れ曲がった人形のような肉塊、ドロドロの血液で濡れた身体、全てが悪夢のような光景だった。

 『女子生徒は見回りをしていた教師に倒れていたところを発見された。もちろんその女子生徒は血塗れなんかじゃなかったし、死体も落ちてはいなかったけどね』
 「随分と見てきたみたいに、臨場感たっぷりに語るんだな」
 「怪談ってそんなものだろう?この話にはおまけがあってね、その女子生徒はその後、何度も何度もその幻覚を見るようになって学校に通えなくなり、やがて発狂したそうだよ』
 「オチをそんなアッサリと語るなよ!台無しじゃないか」
 『結構真面目に聞いていてくれたんだな』

Sはおどろおどろしい怪談を話して聞かせていたのを、微塵も感じさせない軽やかな素ぶりで柔らかく笑った。不意に視界に飛び込んだその顔にどきりとする。

 耳元で血液の流れるドクドクという音が反響した。何だか滑稽だ。

 『なぁ、肝試ししないか?図書室には入れないけど、校舎脇を見ることは出来るからさ』

 今日はいい天気だからきっと夕焼けも綺麗だよ、とSは云った。何故Sが肝試しをしたいなどと言いだしたかは正直分からない。しかし断る理由も特に無かったので、僕は軽い気持ちでそれを了承した。

 


 放課を告げるチャイムが鳴り響いた。

 皆んな帰宅の準備や部活の準備でざわざわと動き始める。

 「肝試しって何となく夜中にするものだと思ってた」
 『まぁ、普通はそうだよね。でも今回の怪談の、怪異に遭遇するキーポイントは「夕焼け」だと思うんだ』

Sがなんでこんなにも、この怪談に拘るのか不思議でならなかった。

 『まだ少し時間が早いけど、件の噂の校舎脇を見に行ってみる?』
 「う、うん」

そこは確かに人影が疎らで静かだが、特に変わったところの無い極々普通の校庭の片隅だった。

 覆い繁げるように生えている木が校舎の脇を隠していて、確かに見通しが悪いなと思った。

 『その辺りに件の、生徒Aは倒れていたらしいよ』

Sは楽しそうに、弾むような声音で云った。

 「おい、不謹慎じゃないか?」
 『真面目だなぁ、でも肝試しをしてる時点で不謹慎極まりないと思うけど』
 「揚げ足を取るなよ」
 『ごめん、ごめん、日が暮れてきたからもうそろそろだよ。いい感じに夕焼けが拝めそうだよね』

 空を見上げるSは肝試しをしているとは思えないほど陽気な顔をしている。僕はそれに妙な引っ掛かりを覚えて、背筋がつぅっと寒くなるのを感じた。

 「ねぇ、なんでそんなにこの怪談に拘るんだ?わざわざ肝試しまでするなんて、ただの暇つぶしにしてはおかしいぞ」

 『会いたい人が居るんだ』 Sはそうぽつりと呟いた。

その顔は何処か哀しそうで儚い雰囲気だった。

 『なんてね…… まぁ、ちょっとした好奇心だよ。実際に人が死んだ場所を間近で見る機会なんて、そうないだろうから』

やっぱり不謹慎だよねぇとSは云う。僕は胸の騒つきを抑えられない。何故こんなにもSのことが気になるのだろうか ……

「なんでAは図書室の窓から落ちたんだろなぁ。だって本、読みかけだったんだろう?」
 『新聞にはそうあったね。でも、実はもうひとつ噂があるんだ。Aがクラスでいじめにあってたらしいっていうね。だから放課後、Aは図書室で過ごしてたみたいなんだよ。帰り道クラスメイトに絡まれるのを避ける為にね。そういうのに嫌気がさして、発作的に自殺したんじゃないかって話さ』

ありがちな話だと思ったが、もう全ては終わってしまったことで、真相は藪の中だ。

 「自殺したやつはその場所に留まって、死の瞬間を何度も追体験するっていうもんな」
 『いま、この瞬間もAは図書室の窓から飛び降りているのかもしれないね』

 校舎脇の木の茂みの側から図書室の窓を見上げる。思ってたよりも図書室のある最上階は高く感じた。

 (ここから落ちたのか)

じわりと背筋を冷たい汗がつたう。

 本を読んでいたAの顔を柔らかな風が撫ぜる。開いていた窓から吹き込む風が揺らすカーテンが気になったので、何気なく窓に近付いた。揺れるカーテンを掴んで窓の外を覗くと、空は真っ赤に染まっている。太陽が燃えているのだ。(まるで世界の終わりのようだ)触れれば、火傷してしまいそうだと思った。Aは窓の外に手を伸ばす。手を伸ばしたところで空に手は届かない。馬鹿だとは思ったが、もっと夕焼けに近付きたくて身を乗り出す。身体を支える片手が震えた。

その瞬間に背中に、ドンッという衝撃が走った。身体が空に吸い込まれるように落ちていく。

スローモーションのようにゆっくりと景色が流れてゆく。風を切るような音だけが耳につん裂くように響いた。

あかあかあかあかあかあかあかあかあか真っ赤な空に身体が溶け込む

地面が顔面に近付く

 

 

 ぐしゃり

 

 

石榴が裂けるように肉片が飛び散った


 いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい身体がいたい、意識が途切れていく


 あぁ、僕を殺したのは誰なんだ?


ハッと意識が浮上する。僕は凍えたように寒いのに、ぐっしょりと汗に濡れていた。

 『ねぇ?誰が殺したんだと思う?』

 膝が崩折れた僕の耳元でSが妖しい声で囁く。

 『誰かが君の背中を押したんだ。一体誰が押したんだろうね?』

 僕はSがどんな顔をしているのかとても気になった。ついさっきまで顔を見合わせていた筈なのに、何故だか彼の顔が思い出せない。

いつの間にか日が暮れ始めていた。空はあの日のように真っ赤に燃えている。夕焼けを背にしたSの顔は逆光で見えない。僕は怖くて怖くて仕方なかった。

 『僕はずっとずっと君を探してたんだよ?君が僕を置いて逝って仕舞うから、ずっとずっとずっとずっと何度も何度も何度もあの日を繰り返して、君を探していたんだ』


 『ねぇ、君の背中を押したのはだぁれ?』甘ったるくて毒々しいSの声が僕の身体に纏わりつく。

くすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくす

嗤っている
何故嗤うのだ?
 僕の脳味噌はお前の望み通りぐしゃりと弾けて仕舞ったじゃないか

「僕の背中を押したのはお前だ」

Sはにぃっと口を引き裂くようにして嗤った。陥ち窪んだ暗い暗い澱んだ穴のような眼が僕を飲み込む。

あぁ、生きている。彼は、彼だけは未だに彼処で生きているのだ。

 彼は僕が彼を置いて逝ったと云ったが、違う、置き去りにされたのは僕の方じゃないか。

 僕はあの日を何度も何度も何度も何度も繰り返して、ずっとずっとずっとあの夕焼けの中を何度だって、落ち続けているじゃないか。

 『今度こそ、手を繋いで彼処から二人だけで落ちようよ。あの子は要らない、僕は君だけが欲しいんだ』


Sの手が僕の目前にぬるりと伸びる。白い手だ。生きているけれど、この世のものではないその手を僕は掴む。

 僕の手とSの手はドロドロに溶けて混ざり合いひとつになった。

 僕らはあの図書室の窓から夕焼けを眺める。揺らめくカーテンが僕らを覆い隠す。

 『僕を忘れないでね?』
 「向かい合わせで落ちて仕舞えば、もう忘れることはないよ」

Sが笑う
僕も笑う

僕らの身体は向かい合わせのまま、図書室の窓から真っ逆様に落ちていった。

 


キーンコーンカーンコーン
                            キーンコーンカーンコーン


 ねぇ図書室の怪談、知ってる?

こんな燃えるような真っ赤な夕焼けの日はね、見えるんだって。

 何が見えるって?それはね ……

                                                              (了)

 

 フリフリモモ