菊花夜話

兄を探しています。

三夜目 先輩のこと

 これは、僕が体験した不思議な出来事です。

 大学に入った年、僕はファミレスでアルバイトを始めました。大学生はバイトをするものだというイメージが先行して何となく始めただけでしたが、間もなく辞められない理由ができました。バイト仲間の一人を好きになってしまったのです。彼は僕より一年早くバイトを始めた先輩で、大学の先輩でもありました。学部が違うため構内で顔を合わせたことはなく、彼に会えるのはバイトの時間だけでした。
 彼。そう、相手は男性でした。同性に恋をするとは自分でも予想しませんでしたが。タイミングも関係していたのだと思います。僕がバイトを始めた頃、バイト先では女子の入れ替わりが激しく、新しくやって来てはやめていく女子たちに辟易すると同時に、頼りになる先輩の存在がより眩しく見えたのです。大学生の恋なんてそんなものではないでしょうか。
 初めての同性への恋が、叶うとは思っていませんでした。下心が滲み出ないよう気を付けて、僕は「先輩を慕う後輩」を演じていました。先輩もそんな僕を可愛がってくれました。他の同僚たちよりも少しだけ親しい関係だったと思います。そうすると諦めていたはずの欲がじわりじわりと頭をもたげてくるのです。先輩ももしかすると僕を特別に思ってくれるのではないだろうか。そんなことを。

 バイトを始めたのが四月の終わり。約一年が過ぎた三月のはじめのある日。僕は夕方から深夜にかけてのシフトに入っていました。その日はとても店が混み、しかも先輩は休みとあって、ただひたすらに疲れる夜でした。くたくたになって定時を迎え、私服に着替えて裏口から出ると、先輩が立っていました。
 どうしたんですかと驚く僕に、一緒に帰ろうと返す先輩。もちろん断る理由もなく、一日の疲れはどこへやら、浮かれ気分で帰路に就きました。
 時刻はとうに零時を回っていて、都会でもない町では人の姿はほとんど見えません。静かな夜の道を、僕たちは並んで歩きました。心なしかゆっくりとした歩調で。交わす言葉は他愛のないものです。今日の店はどうだったとか、春休みはどう過ごしているとか。春だからというのもあるのでしょうか、夢のような時間に僕はすっかり浮足立っていて、今しかないんじゃないかと内心で決意を固めつつありました。彼に想いを伝える決意です。この時間が終わってしまう前に、一年分の想いを言葉へ変えようという決意。けれどそれは容易に実行に移せるものではなく、他愛のない話を続けながらまたひとつ交差点を渡ります。赤いパーカーの男性が信号待ちをしていて、デート気分になっている僕は何となく気恥ずかしい気持ちでその後ろを通り過ぎました。

 ほとんど人の姿のない静かな夜の道を、僕たちは並んで歩きました。交わす言葉は他愛のないものです。後期の授業はどうだったとか、最近暖かくなってきたとか。すっかり浮足立った僕は、いったいどんな風に想いを告げようかと、そんなことばかり考えていました。大した話術も持たない僕に、先輩はいつもの柔和な笑みを返してくれます。彼のどこを好きになったのかと言えば、これとひとつを挙げるのは難しいですが、そんな表情のひとつを取っても魅力的に思えて仕方がないのです。他愛のない話を続けながらまたひとつ交差点を渡ります。赤いパーカーの男性が信号待ちをしていて、デート気分になっている僕は何となく気恥ずかしい気持ちでその後ろを通り過ぎました。

 ほとんど人の姿のない静かな夜の道を、僕たちは並んで歩きました。交わす言葉は他愛のないものです。最近どんなニュースがあったとか、人は死んだらどこへ行くのかとか。僕は先輩と喋るのが好きでした。特別良い声というわけではないのですが、滑舌が良くて聞き取りやすい声でした。先輩の言葉がどんなものでも耳を澄ませて聞きました。二人きりで話しているとどんどん先輩の言葉に没入していってしまう、その感覚が好きでした。話しているうちに頭がぼうっとしていくのが分かります。夜は赤いので、この時間が終わらなければいいのにとそんなことを思っていました。他愛のない話を続けながらまたひとつ交差点を渡ります。赤いパーカーの男性が信号待ちをしていて、デート気分になっている僕は何となく気恥ずかしい気持ちでその後ろを通り過ぎました。

 ほとんど人の姿のない静かな夜の道を、僕たちは並んで歩きました。交わす言葉は他愛のないものです。血のにおいの話とか、人間を食べたことがあるかとか。僕はどうしたら先輩とずっと一緒にいられるのかと考えていました。先輩と両想いになれば先輩とひとつになれることは分かっています。どうして自分に肉と骨があるのか、この時ほど不満に感じたことはありません。全部融けて液体になって先輩に吸い取ってもらえれば解決するのです。どこかでびちゃびちゃと水っぽい音がして、先輩は僕の内臓でした。子供の骨が折れて赤くなっています。目なんていりません。赤いから夜です。先輩に抱き締められたら吐いてもらえます。だから僕はまだ死んでいないまま交差点を渡ろうとして、信号待ちをしていた赤いパーカーの男性がこちらを振り向きました。

「大丈夫ですか!」

 同い年くらいの知らない男性は、振り返るなり驚いた声を上げました。後で聞いた話によれば、その時の僕は夜道でも分かるくらいに真っ青な顔をしていたそうです。彼に何と返したのかは覚えていません。彼に声をかけられてすぐに僕は意識を失い、次に目覚めたのは翌日の昼、病院のベッドの上でした。
 それからすぐに、バイト仲間からの連絡で、昨夜の内に先輩が亡くなっていたことを知りました。交通事故でした。時間は夜の九時頃。車に撥ねられ、病院に運ばれた時にはもう心臓は止まっていたそうです。僕のバイトが終わった時、彼が現れるはずがありません。赤いパーカーの彼も、僕は一人だったと言っていました。

 アルバイトはその後も、就職活動を始める時期になるまで続けました。無事に卒業し、就職し、それなりに平穏な日々を過ごしています。
 不思議な縁もあったもので、あの日知り合った赤いパーカーの男性とは、パートナーとして一緒に暮らしています。先輩が僕たちを繋げてくれた――というのは良い風に考えすぎでしょう。
 今では遠く離れたあの町の風景、あの夜の風景を、折に触れて思い出します。あの夜僕は誰と一緒に、どこを歩いていたのでしょうか。夢のような時間、その記憶は確かに残っているのに、まさに夢のように細部が朧に霞んでいるのです。
 全てを忘れてしまった頃、先輩はまた僕を迎えに来るのかもしれません。

 

 春日野